複雑な常磐線との二重区間 なぜ生まれたか 東京メトロ千代田線 輸送力増強の紆余曲折

北千住~大手町間の開業から50年を迎えた東京メトロ千代田線。JR常磐線方面から都心部への通勤輸送の強化が図られるなか、東京で7番目の地下鉄として整備されましたが、常磐線との直通に際しては、紆余曲折がありました。

拡充された地下鉄整備計画に加わった千代田線

 東京メトロ千代田線は2019年12月20日(金)、1969(昭和44)年の北千住~大手町間開業から50周年を迎えました。約100年前に始まる東京の地下鉄整備の歴史からすると、千代田線は「折返し地点」に位置する路線ということになります。

 実際、9路線195.1kmの路線網を持つ東京メトロが、営業キロ100kmを超えたのは千代田線開業時ですし、東京で7番目の地下鉄として誕生した千代田線は、13路線のちょうど中間に当たります。

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JR常磐線の我孫子駅まで運転される営団(当時)6000系電車(1989年、恵 知仁撮影)。

 地下鉄整備計画から見ても、千代田線は大きな転換点にある路線です。戦前に計画されていた地下鉄路線は1号線から5号線までの5路線で、経由地などは大きく変更されていますが、これは現在の都営浅草線(1号線)、日比谷線(2号線)、銀座線(3号線)、丸ノ内線(4号線)、東西線(5号線)に相当します。千代田線はこれらオリジナル5路線と、東西線の支線計画から発展した都営三田線(6号線)に続く、「第2世代」最初の路線とも言えるでしょう。1号線から5号線までの5路線、特に銀座線と丸ノ内線は、それまで新宿、渋谷、池袋などのターミナル駅で山手線や路面電車に乗り換えていた人たちを、都心まで速く大量に運ぶために整備された路線でした。

 地下鉄の整備で東京の通勤圏は大きく広がります。1956(昭和31)年には、ターミナル駅の混雑と乗り換えの手間を避けるため、5路線のうち都営浅草線、日比谷線、東西線は私鉄や国鉄線との相互直通運転の実施が決定しました。こうして、戦前に計画された路線がようやく具体化しますが、この頃、東京圏の人口は従来の想定をはるかに超えて増加していたため、地下鉄整備計画は1962(昭和37)年、5路線から10路線に大幅に拡充されました。千代田線の原型となる路線もこの時に追加されたのです。

【写真】「営団」マークで展示される車両

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コメント

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4件のコメント

  1. 迷惑乗り入れは、国鉄の103系1000番台に対して言われていた言葉ですよ。

    • 国鉄スト盛んな時代、国鉄が走ってくれなくて迷惑した、て話は色んな話で聞きましたよ。常磐緩行線が上野直通から千代田線乗り入れに変わった時期にぶつかったこともあって。
      まぁ自分を育ててくれた親代わりの一人でもある常磐緩行線沿線に住んでた亡祖母(両親が育児放棄をした訳ではなくて両親が仕事忙しすぎて祖母に育児任せた時代がある)が国鉄関連会社(車内清掃会社。少し前なら東北新幹線車両折返しの清掃で称賛受けてた会社ですかね)勤務でしたが労働組合で先頭を走っていましたので(新聞配達が配達所近くなので朝4時に起きて朝刊読んでた)そういう意味で反論したくなりますが(苦笑)。
      なお自分が大きくなると自分ひとりで動けるので自宅(大阪)から上野乗り換えや祖母が生きてる末期には京葉線経由で「営団地下鉄の料金払わず」で祖母宅行ってました。

  2. こういう記事は経緯を示した地図があるとわかりやすいと思いました。

  3. 西日暮里と北千住の間については、JR東日本と東京メトロの間で、都営三田線とメトロ南北線との間で実施しているように、2重戸籍というか共用区間として営業し。JR東日本が第二種鉄道事業者として運営してはどうであろうか?
    その方が利用者にとってもわかりやすいし、JR東日本がメトロに線路使用料を払うことになるが、この貸借はすでに都営とかの事例で実施済ですから、双方がやる気になれば可能だと思います。