プロペラ飾る神社に見た伊勢崎市と中島飛行機の深い縁 戦後は富士重工「スバル360」も

中島飛行機と群馬県伊勢崎市の深い関わりとは?

 戦争が終わった後も、プロペラは伊勢崎神社のシンボルであり続け、いまでは渡航安全、航空安全を祈願する同神社のお守りにもデザインされています。ではなぜ、伊勢崎市内の神社にプロペラが奉納されたのかというと、それは同市と中島飛行機との深い関わりを説明しなければならないでしょう。

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プロペラをかたどった伊勢崎神社の、渡航安全と航空安全を祈念するお守り。同社の御朱印もプロペラをモチーフとしたもの(斎藤雅道撮影)。

 元々、中島飛行機の創設者、中島知久平が現在の群馬県太田市出身ということもあり、群馬と中島飛行機の関わりは深く、太田市には中島飛行機の工場があり、伊勢崎市にも同社関連の施設が戦前からあったそうです。神社の木製のプロペラはそうした時代、九〇式三号水上偵察機のエンジンを中島飛行機が生産していた関係から奉納されたもののようです。

 そして戦時中、太田の工場だけでは生産が間に合わないということで、中島飛行機は1942(昭和17)年7月に伊勢崎第一工場を、1943(昭和18)年4月に伊勢崎第二工場を開設します。そこで、「隼」の名で知られる一式戦闘機や、「疾風」と呼ばれる四式戦闘機など陸軍の航空機部品を製造していました。また、海軍機の零戦に搭載されている栄エンジンが中島製ということで、零戦の部品も作っていたようです。同市が、航空機製造の一大拠点となっていったこともあり、伊勢崎神社に航空安全を祈願する人も当時は多かったのではないでしょうか。

【写真】献納された九〇式三号水上偵察機とその命名式

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