イタリアじゃ不遇も北欧では「傑作機」 フィアットG.50戦闘機 どうしてそうなった?

登場が早すぎた? 素性は良かったG.50戦闘機

 しかしフィアットG.50は、高速飛行から制御不能なスピンを起こしやすい癖があり、軽快な複葉戦闘機の格闘戦性能と比較して、操縦性はあまりよくなく、武装も機首に装備した12.7mm機銃2挺のみと貧弱でした。しかし、イタリア空軍は近代化を急いでいたことからG.50の制式採用を決定、「フレッチア(矢)」の愛称でフィアットに生産を命令します。

 1938(昭和13)年には、当時、激しさを増していたスペイン市民戦争(スペイン内戦)にも11機が参加し、実戦デビューしています。しかし最新の密閉式風防は、前線では不評を買います。これは当時の風防ガラスの透明度や製造法が大きく関係していました。どうしてもフレームを多くしなければならず、これが視界不良と索敵の妨げになるというものでした。同様の主張は、後に配備されるマッキM.C200戦闘機でも起きています。

 結局G.50型は、時代を逆行するかのごとく、密閉式風防を廃止して、操縦席後部が胴体とつながった開放式に改修されることになったのです。

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1941年のリビア・キレナイカの基地で、作戦終了後にワインで祝う第352飛行隊の操縦士とG50戦闘機。北アフリカでは英ハリケーンやP40戦闘機と数々の空中戦を演じたが、その戦果は他の機種と比べて大きくなかった(吉川和篤所蔵)。

 1939(昭和14)年9月、ドイツが隣国ポーランドに攻め入り、第2次世界大戦が始まります。翌1940(昭和15)年6月には、イタリアもドイツ側に立って参戦、フィアットG.50戦闘機は、空軍の主力機であったフィアットCR-42複葉戦闘機と共にイタリア戦闘機隊の中心戦力として北アフリカやギリシャ、地中海上空の戦いや英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)などに参加します。

 しかし当時、イタリアの植民地であった北アフリカのリビアに配備された機体には防塵フィルターが未装備だったためエンジン故障が多発、後から配備されたMC.200やMC.202といったマッキ製戦闘機に比べて大きな戦果を挙げる事はありませんでした。結果、G.50型は戦闘爆撃機に転用されながら、徐々に第一線を退いていきます。

【写真】フィンランド空軍に属したイタリア・フィアット製G.50戦闘機

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