イタリアじゃ不遇も北欧では「傑作機」 フィアットG.50戦闘機 どうしてそうなった?

駄作機にならずに済んだ北欧での戦果

 イタリア空軍ではパッとしないまま前線から引き揚げられていったフィアットG.50戦闘機でしたが、意外な所で活躍を見せます。それは北欧の国フィンランドでした。

 1939(昭和14)年暮れ、フィンランドはソ連と戦端を開く可能性から、自国空軍が装備するオランダ製フォッカーD-21戦闘機の後継として、同じ空冷機であるG50の発注をイタリアに対して行います。同機は最終的に、33機がフィンランド空軍第26飛行隊に配属されてソ連機相手に極北の空で戦います。

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1940年、「幸運の青いスワスチカ」と呼ばれるフィンランド空軍識別章を描いたG50戦闘機FA-19号機。無線機を載せ変えてアンテナ支柱は大型になり、操縦席の前に移動している。極北の操縦士達はこの開放式風防機で、1944年夏まで戦い抜いた(吉川和篤作画)。

 当初は寒冷地でのエンジン不調が続いたものの、フィンランド人達は巧みにこのイタリア機を使いこなすようになり、1941(昭和16)年から1944(昭和19)年まで続いた第2次ソ・フィン戦争、いわゆる「継続戦争」では、最初の年だけで52機を撃墜、最終的にG.50型を用いて敵機99機撃墜の戦果を挙げています。

 これに対し、フィンランド軍のG.50の損害はわずかに3機という驚異の33:1の撃墜対被撃墜比率(キルレシオ)を見たのです。

 結果、フィンランドのG.50戦闘機は、エンジンの予備パーツがなくなるまで使用され、オイヴァ・トゥミネンの23機を筆頭にオイリ・プハッカの13機、ニルス・トロンティの6機など“イタリア機の名手”を複数、輩出しました。

 これは頑丈な機体設計や視界の良い操縦席の改修も上手く作用したものと思われますが、フィンランド人戦闘機パイロットとしての資質によるものが一番の理由でしょう。ちなみに、イタリア語で戦闘機を表す「Caccia」の本来の意味は「狩猟」です。となると、さしずめG.50のパイロットは「猟師」といったところになるのかもしれません。

 ということは、その「猟師」に操られたG.50は“猟犬”にあたるのかも。ラテン産の猟犬は一時の栄光を得て、北の空を駆け抜けた、といえるではないでしょうか。

【了】

【写真】フィンランド空軍に属したイタリア・フィアット製G.50戦闘機

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「あなたの知らないイタリア軍」「日本の英国戦車写真集」など。

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