なぜ京王線の線路幅は都電サイズ? 「元 京王電車ここを通る」標柱にヒントあり 廃線たどる
路面電車だった痕跡を探す
京王線新宿駅の地下化は1963(昭和38)年です。それ以前、線路は新宿駅を出てすぐに甲州街道上を約400m走り、現・文化学園大学付近でS字の急カーブを描きながら玉川上水を渡り、甲州街道に並行する専用軌道区間へと進んでいました(1945年7月~1963年3月の例。それ以前は山手線の内側の新宿追分が始終点)。
文化学園大学前の幅広い歩道のような場所から先、初台駅方面へと緑道が延びていますが、ここはかつて玉川上水に沿って京王線が地上を走っていた廃線跡です。玉川上水も暗渠化され、いわば廃線跡と廃川跡が一緒になっているわけです。そうした全国的にも珍しい例が、高層ビル群を間近に見る新宿にあります。
もう1か所、京王線つつじヶ丘駅(東京都調布市)付近を訪ねてみましょう。同駅近くの甲州街道に滝坂下交差点があり、そこから調布方面へ約600mにわたる甲州街道上に、1913(大正2)年から1927(昭和2)年まで線路が敷かれていました。もはやここも痕跡はないのですが、縮尺の詳しい地図を見ると、PCデポの建物付近で甲州街道から斜めに分かれた道の先で、かつての線路跡が一部分かります。線路跡に建てられた建物は他の建物と向きが異なり、線路跡をなぞる形で建物が続いているためです。
そして野川沿いの調布市立第七中学の校内には、「元 京王電車ここを通る」の案内柱が立てられています。このあたりに線路が通っていたのは、今から90年以上前(2021年末時点)なので、電車が走っていた面影はまったくなく、この案内柱に出会うととても不思議な気がします。かつての線路は布田~調布間で現在の線路に合流していました。
線路の幅の違いを見ていくだけでも、鉄道の歴史の深さを実感させられます。
【了】
Writer: 内田宗治(フリーライター)
フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。
歴史に思いをはせるためにも、京急と京成が昔は馬車軌間だったことに一言ふれて欲しかった。
京王線は地下鉄新宿線にも乗り入れしてますが、地下鉄も馬車軌道なのでしょうか。地下鉄の事は書いてありませんが。
新幹線というか京浜急行の標準軌、国鉄の狭軌だが日本の標準軌に対して、京王帝都の変軌!