ソ連から逃げろ! スターリンを悩ませたドーリットル8番機問題とその乗員の「脱出劇」

日ソ中立に基づき拘束…ならば脱走だ

 結局、ソ連は駐ソ米大使に形式的な抗議を行い、日ソ中立条約に基づきB-25は没収、その乗員を拘束しました。乗員たちの収容場所は、ウラジオストックからボルガ川流域まで点々と移動を繰り返し、東西に広大なソ連の半分を移動したことになります。

 扱いは人道的で、監視警備はゆるくアメリカ大使館員との面会も可能でしたが、準捕虜であることに違いはなく、乗員はいつ帰国できるかわからない不安でストレスが溜まる一方でした。ある時ヨーク機長がアメリカ大使館員と面会した際に脱走したいと漏らしたところ、アメリカ軍のオマール・ブラッドレー少将から大人しくしているよう、直々に指示が出たほどです。それくらい、当時の日米ソの外交関係は微妙でした。

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ドーリットル隊の飛行経路。燃料が不足した8番機はウラジオストックを目指した(国立アメリカ空軍博物館所蔵画像を月刊PANZER編集部にて加工)。

 そうしたなか、ロシア語を少し話せる様になっていた乗員たちは、トルクメニスタン(ソ連邦内共和国)首都アシガバードへの移送中の列車内で、アレクサンドル・ヤキメンコという赤軍少佐と親しくなりました。ヤキメンコ少佐は乗員たちに同情し、帰国の手伝いをしようと動いてくれるようになります。

 しかし、いち軍人に過ぎないヤキメンコ少佐がソ連の外交当局を動かすことは非常に困難でした。やがてヨーク機長とヤキメンコ少佐は、ついに秘密の脱走計画を立てるにいたります。イランに出入りする密輸業者を雇い、警備の薄いソ連イラン国境を越え、イギリス領事館に逃げ込むというもので、ヤキメンコ少佐の提案によるものでした。密輸業者に払う必要経費は250ドルということで、乗員たちはなけなしの所持金をかき集めたのでした。

 脱出劇は1943年5月10日夜に実行されます。ヤキメンコ少佐と乗員たちは涙を流して別れを惜しみ、成功を誓い合ったといいます。密輸業者のトラックに乗り込んだ乗員たちは、闇夜に紛れて国境の鉄条網へ。さすがは密輸業者で、警備の薄い場所とタイミングはわかっていました。

 こうして、徒歩で鉄条網をくぐり抜け、イラン側で別の密輸業者のトラックと落ちあった乗員たちは、11日中にはイランのイギリス領事館にたどり着くことができました。

2022年現在のヴォズドヴィデンカ基地

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