ソ連から逃げろ! スターリンを悩ませたドーリットル8番機問題とその乗員の「脱出劇」

ドーリットル8番機乗員たちによる脱出劇の「舞台裏」

 乗員たちの執念と知恵と勇気の脱出劇、といいたいところですが、外国人との接触が厳しく制限されていたスターリン時代ソ連の話としてはできすぎであり、違和感がないでしょうか。

 8番機の銃手で、爆撃隊のなかで最年少の20歳だったデビッド・W・ポール軍曹はのちに、脱出はすべてソ連軍参謀本部とNKVD(エヌカーヴェーデー、内務人民委員部。刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた)によって計画されたものだと疑っている、と明かしました。一方で副操縦士のロバート・G・エマンズ少尉は、脱出は本物だったと反論しています。

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前列左が8番機機長のエドワード・J・ヨーク大尉、隣が副操縦士ロバート・G・エマンズ少尉、後列最右が銃手デビッド・W・ポール軍曹(画像:アメリカ空軍博物館)。

 真実は、ポール軍曹の疑念のとおりでした。この脱出行は、ソ連共産党指導部とNKVDによって巧妙に仕向けられた茶番劇だったのです。涙を流して乗員たちを送り出した助演男優賞もののヤキメンコ少佐の正体は、ウラジーミル・ボヤルスキーというNKVDの少佐でした。

 当時のソ連最高指導者スターリンは、アメリカから乗員解放の働きかけも強くなり、面倒くさい賓客を早く送り返すため、NKVDにイラン経由で脱出させるよう指示します。しかし日本との関係を考慮して、あくまで乗員たちが自らの主導で計画して脱出したと見せかけるよう念を押します。

 この舞台装置は大がかりでした。脱出を手引きした密輸業者など、かかわった人物がすべてNKVDの要員でした。しかも乗員たちが必死の思いで越えた国境の鉄条網も検問所も、トルクメニスタン内にわざわざ作られた大道具の偽物だったのです。

 当時、枢軸国寄りだったイランには1941(昭和16)年8月にソ連とイギリスが侵攻し、ソ連と国境があるイラン北部はソ連軍が占領駐留していました。そのため、「脱走した捕虜たち」をイランに越境させイギリス領事館に駆け込ませることなど、造作もないことでした。イギリスもひと口、噛んでいた可能性があります。

 まとめると、スターリンの指示でNKVDが用意したシナリオのもと、ソ連軍が占領警備している舞台装置のなかで、アメリカ人乗員たちはそうと知らぬまま迫真の脱出劇を演じていた、というわけです。しかも主演俳優たちは出演料まで支払っています。

 しかし闖入者のせいで日米との微妙な外交舞台を演じなければならなかったスターリンにとって、250ドルは少なすぎる代価だったことでしょう。

【了】

2022年現在のヴォズドヴィデンカ基地

Writer: 月刊PANZER編集部

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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