標高1000mのキャンプ場 そこは「駅」だった わずか10年で消えた赤城山の鉄道
東武鉄道総裁・根津嘉一郎の肝いり開発プロジェクト
ケーブルカーを運営していたのは東武鉄道の傍系会社「赤城登山鉄道」です。1957(昭和32)年7月に開通し、その6日後には、鳥居峠よりもさらに高い赤城平と地蔵岳を結ぶロープウェー(のちの赤城山ロープウェイ)も開通しています。
東武鉄道の社史などには、戦前に東武の総裁を務めた根津嘉一郎(初代)が赤城山に赴き、観光資源としての将来性に着目したとあります。
戦後、昭和30年代に入ると、東武は赤城山の開発へ本格的に着手。この前後から、浅草より桐生線終点の赤城へ直通列車や夜行列車を運行するなどしました。ちなみに、赤城駅はもともと新大間々という駅名でしたが、赤城登山鉄道の開業を機に赤城駅へ改称されています。
しかし、前橋方面へ通じる赤城山南側の道路が整備されると、自家用車の普及もあって、東側のルートは急速に廃れ、1968(昭和43)年にケーブルカーは廃止されます。存続期間は11年足らずでしたが、ロープウェーはその後も1998(平成10)年まで存続しました。
ケーブルカーの起点である利平茶屋は、訪れたときこそゴールデンウイークで多くのテントが張られ家族連れで賑わっていましたが、クルマでのアクセスも良いとは言えず、普段はひっそりしていることでしょう。ホントにここに鉄道が? と思うかもしれません。しかしそこには、赤城山の一大観光地化を目指した東武鉄道の夢の跡が眠っています。
【了】
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