バブル期の伝説!「オリエント急行」が日本に来るまで 世界最長距離列車のギネス記録なお

「オリエント急行」をオリエント(東洋)へ!

 番組作成にかかる取材を通じて、「オリエント急行」を運営する「ヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」の重役や日本国鉄運輸局長との交流を経た沼田氏は、「『オリエント急行』の終着駅は、イスタンブールの西側で『東洋』(オリエント)に入っていない。『オリエント急行』をオリエントまで走らせよう」と考えました。会う人会う人に「そんなことができるわけがない」と言われつつも、フランス国鉄の技術部長らの協力を得て、プロジェクトは開始されます。

「パリを出発して、ソ連(現・ロシア)国境まで走り、広軌台車と換装したあと、シベリア鉄道で中国領土に到達。そこで標準軌台車と交換して、香港まで走行。そこから船で日本に到着して、狭軌台車で東京まで走る」構想でしたが、正気と思われず、特に起点となるフランス国鉄と、大陸終点の九広鉄道(当時)との交渉は困難を極めたそうです。

 また、ソ連との交渉も難航しました。30台の広軌台車を夏季休暇返上で製造させても間に合わず、出発日を延期する事態も発生。中国に対しても、ちょうどそのころ、日本人の高校生が上海で列車事故に巻き込まれ、その補償が話し合われている最中であり、日本人客を乗せた「オリエント急行」を通す交渉は難しかったそうです。

 そして日本の国内走行についても、「外国の列車走行を法律が想定していない」との理由から、当時の運輸省との交渉は1年に及びました。運輸省だけでなく、通関問題で大蔵省(現・財務省)、通過国との交渉で外務省、さらには車内の石鹸・化粧品類は厚生省(現・厚生労働省)、食堂車は保健所、車内で食品を販売する税金は税務署、警備問題は警察……と、多方面の関係者との交渉が必要となったのです。

【写真】連結された高級食堂車の車内

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