命懸けの大作戦!「米軍初の日本空襲」参加パイロットが語った心情とは 今じゃ見られない“軍人ならでは”の顔も

太平洋戦争中の1942年4月18日に実施されたアメリカ軍爆撃機による日本本土の初空襲。それから75年後の2017年に行われたアメリカ空軍の記念式典を取材してみると、作戦に参加した当時の乗員の心情を垣間見ることができました。

アメリカ初の日本本土攻撃の意味

 今から83年前の1942(昭和17)年4月18日、アメリカ軍の爆撃機が初めて日本本土を空襲しました。飛来したのはアメリカ陸軍のB-25「ミッチェル」爆撃機16機で、空母「ホーネット」に積まれて日本近海まで近づいたのち発艦。東京や横浜、横須賀、名古屋、神戸などに爆弾を落としました。

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「ドーリットル空襲」75周年の記念行事のために集結した民間所有のB-25爆撃機(布留川 司撮影)。

 なお、このときの攻撃は、部隊指揮官であるジミー・ドーリットル中佐の名前から「ドーリットル空襲」と呼ばれています。

 そもそも日本とアメリカは、この空襲の約4か月前の1941(昭和16)年12月、日本側が仕掛けたハワイ攻撃を契機に戦争状態にありました。このあと1945(昭和20)年8月まで約3年8か月にわたって日米は戦い続けますが、当初は日本側が優勢で、アメリカ国内は前出のハワイへの奇襲攻撃と、日本の潜水艦による米本土周辺における通商破壊戦により厭戦気分が広がっており、その影響は実際の軍事的損害以上に大きかったとも言われています。

「ドーリットル空襲」が実施された理由のひとつには、このような閉塞感漂う状況を打破し、米国内の士気を高める意味も多分に含まれていたと言われており、軍事的な合理性よりも象徴的な意味合いの高い作戦であったようです。

 日本ではこの作戦について、主に批判的な評価がなされています。それは攻撃を受けた被害国としての立場だけでなく、多くの死傷者が民間人だったことが原因です。しかしアメリカ側から見れば、この作戦は太平洋戦争の転換点の一つであり、その重要性から半世紀以上が経過した現在でも、「ドーリットル空襲」にちなんだ式典が開催されています。

 今から8年前の2017(平成29)年には、作戦実施から75周年を迎えたことを記念し、アメリカ空軍主催の大規模な記念式典が、オハイオ州デイトンの空軍博物館で行われており、筆者(布留川 司:ルポライター・カメラマン)も取材しました。

【困難を乗り越えた!】空母からB-25陸上爆撃機が飛び立つ瞬間です(写真)

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