命懸けの大作戦!「米軍初の日本空襲」参加パイロットが語った心情とは 今じゃ見られない“軍人ならでは”の顔も
太平洋戦争中の1942年4月18日に実施されたアメリカ軍爆撃機による日本本土の初空襲。それから75年後の2017年に行われたアメリカ空軍の記念式典を取材してみると、作戦に参加した当時の乗員の心情を垣間見ることができました。
参加者は多くを語らず
2017年当時、最後の生存者だったリチャード・コール氏は、作戦指揮官ドーリットル中佐が操縦する1番機の副操縦士としてこの作戦に参加しています。ただし、高齢のため式典ではスピーチを行わず、代わりに娘のシンディ・コール氏が報道陣のインタビューに応じていました。

現在では英雄と称えられる「ドーリットル空襲」の参加隊員たちですが、シンディ氏によれば、家庭でのコール氏はそのヒーロー的なイメージとは対照的だったといいます。
「私の父はずっと軍にいたので、私を含め家族の皆が飛行機好きでした。しかし、父が家で『ドーリットル空襲』について語ることはありませんでした」(シンディ氏)
コール氏は1966(昭和41)年に空軍を退役し、その後は民間人として講演会やインタビューに応じるようになりました。その内容は、勇ましい英雄譚ではなく、任務を淡々と遂行したというストイックなものでした。晩年のインタビューでも、「英雄になったと感じましたか?」との質問に対して、彼は「We were just doing our job(ただ、任務を遂行しただけです)」と答えています。
一般的に、戦争の歴史は勝者と敗者で異なる視点から語られます。このような「ドーリットル空襲」の式典に違和感を覚える日本人もいるでしょう。実際、この作戦では意図的とも思える民間人への攻撃も行われており、筆者も取材中にそのことを考えると、複雑な気持ちになる瞬間がありました。
しかし、こうした式典によって太平洋戦争の記憶が風化せず、後世に伝えられていくという側面もまた事実です。戦争から半世紀以上が経ち、当事者たちが次々と世を去っていく今こそ、こうした記録や継承の機会は重要であるといえるでしょう。
Writer: 布留川 司(ルポライター・カメラマン)
雑誌編集者を経て現在はフリーのライター・カメラマンとして活躍。最近のおもな活動は国内外の軍事関係で、海外軍事系イベントや国内の自衛隊を精力的に取材。雑誌への記事寄稿やDVDでドキュメンタリー映像作品を発表している。 公式:https://twitter.com/wolfwork_info
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