なぜできた?「100m道路」 超ド級の幅広道がなぜか“日本に3つだけ”といわれるワケ

日本には、幅員が100mある通称「100m道路」があります。何故ここまで幅員の広い道路が存在するのでしょうか。単に幅が100mある道路はいくかあっても、「100m道路は日本に3本だけ」ともいわれるのは、その3本が特別な経緯で作られたからです。

政府よりも早かった戦後・名古屋の「再建の構想」

 名古屋の中心地・栄を南北に結ぶ「久屋大通」と、これに交わる東西方向の「若宮大通」は通称「100m道路」と呼ばれます。歩行者用信号がすでに青の場合に渡り始めると、向こうの歩道まで確実に渡り切れないこともある超大型の道路です。一方、この超大型道路のおかげで、道路中央には緑地公園などがあり、ゆとりある豊かさを感じさせてくれる道路でもあります。

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名古屋に2つ、広島に1つある「100m道路」(画像:写真AC)。

 この名古屋の2大道路のほか、広島市街「平和大通り」は、「3大100m道路」と呼ばれています。しかし、何故ここまで幅員の広い道路が存在するのでしょうか。これには、太平洋戦争が大きく関係しています。

 戦時中、軍需産業都市だった名古屋は、アメリカ軍から激しい空襲を受けます。これにより、名古屋城を含む名古屋市内の4分の1が焼け野原となってしまいました。しかし、1945(昭和20)年の終戦後間もなくして、名古屋市は復興へ向けた「名古屋再建の構想」を独自に策定し、同年10月には名古屋市復興調査会を設置します。政府が「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定する2か月も前のことでした。

 後に、政府がこの戦災地復興計画基本方針に基づいて各都市に国庫補助を行うことになり、そこで全国の主要都市に対して緑地帯と防火帯をかねた幅員100mの道路を建設する、「100m道路構想」が持ち上がります。名古屋市もこれを受けて、後の久屋大通、若宮大通の「100m道路」実現を目指し、「名古屋市復興計画の基本」を決定します。

 当初、政府が掲げた「100m道路構想」は、全国7都市を視野に入れていました。しかし、1949(昭和24)年に財政金融引き締め政策である、いわゆる「ドッジ・ライン」によって国庫補助予算が大幅に縮小。結果的に、いち早く「名古屋再建の構想」に取り組んだ名古屋市に、久屋大通、若宮大通の2本の「100m道路」が実現することとなったのです。

 前後しますが、広島の「100m道路」である平和大通りは、元々は戦中の防空対策として実施された建物疎開の跡地がベースとなっています。戦後数年間は、原爆による被害の爪痕が色濃く残り続け、付近は瓦礫やバラックが残っていました。この瓦礫やバラックだらけの疎開跡地に対し、政府が1946(昭和21)年に「広島復興都市計画」立案した際、「平和と戦後復興の象徴」として、ある種の特別枠的に「100m道路」プランをスタートさせたという経緯があります。

 前述の「ドッジ・ライン」で補助予算が縮小されることになっても、他都市よりも広島が優先された結果、前述の名古屋の久屋大通、若宮大通と合わせて、広島の平和大通りが、戦後に開かれた「100m道路」の1つになったのです。

 これら3つの「100m道路」の全線開通は、名古屋の久屋大通が1963(昭和38)年、若宮大通が1964(昭和39)年、そして広島の平和大通りの全線開通は1965(昭和40)年でした。ちなみに、名古屋の2つの通りに関しては当初の名称が曖昧で、ズバリ「100m道路」と呼称されていた時期もあったそうです。

【で、でけえ…!】まさに街のシンボルな「100m道路」(写真で見る)

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コメント

1件のコメント

  1. 100m道路って云うから、全てが車線かと思ってしまいました。

    中央に公園などがあってもいいなら、札幌の大通が約105m、東京の国道357号が約100m、大阪中央環状線の一部区間が約122mあるので、100m道路との違いは何であろうか?

    全国の幅広道路の比較やその考察があれば、より深みのある記事となる思いますが。