埼京線になるはずだった? 22kmの新路線は埼玉県知事も「有利」と太鼓判 沿線の期待を乗せた計画なぜ消えた
大正末期から昭和初期にかけて、大宮と大塚を結ぶ「東京大宮電鉄」の計画がありました。後の埼京線に似たルートをたどるこの幻の路線は、なぜ実現しなかったのでしょうか。
「ビール王」も参画 しかし計画は迷走
東京大宮電鉄は大日本麦酒(アサヒビール・サッポロビールの前身)社長で「ビール王」と呼ばれた実業家・馬越恭平を発起人総代として、1926(大正15)年6月に免許出願しました。埼玉県知事の意見書にも「本起業は地方交通の利便はもとより産業の発展上有利と認」めるとあり、地域の期待がうかがえます。
翌年4月に免許は下りますが、まもなく計画は迷走し始めます。1928(昭和3)年4月に起点を「大宮町将来の発展とその交通の状況に鑑み」て大宮駅から氷川公園(大宮公園)に、終点を「東京市において計画せる地下鉄道に連絡を図る」ため大塚駅から巣鴨に変更申請します。
また、1929(昭和4)年9月には経過地から木崎村を削除し、三橋村を追加する変更申請をしています。木崎村は大宮駅の東側、三橋村は西側です。路線図は残されていませんが、氷川公園から与野町、三橋村の順に経過するとあるので、大宮駅の南側で線路を横切り、当初ルートに戻る形と思われます。
そうした中、東京大宮電鉄は1929(昭和4)年、秩父セメントを設立し「セメント王」と謳われた諸井恒平を社長、元鉄道省の植村家治を常務取締役に据えるなど、有力メンバーで創立されます。兼業として電灯・電力事業、宅地開発、砂利販売業も予定していましたが、壮大な構想とは裏腹に計画は停滞します。当時の経済誌には、地価上昇で用地買収が難航しているとあり、鉄道省も計画に見切りをつけたと記されています。
そして翌年5月、創立からわずか1年で東京大宮電鉄は解散を決議し、免許を現在の武蔵野線に相当する環状線計画を持っていた大東京鉄道に譲渡しました。1932(昭和7)年に東北本線が待望の電化を迎えると、当時の経済状況と人口規模では並行路線の成立はますます困難となり、1935(昭和10)年8月に免許は失効しました。
前述のように有力な発起人が名を連ねた計画であり、もう数年早く動いていれば実現したかもしれず、時代の巡り合わせが悪かったとしか言えません。この地域に埼京線が開通したのは、免許失効からちょうど半世紀後、1985(昭和60)年のことでした。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





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