実働わずか8か月! 東京に残る「薄幸」鉄路、武蔵野競技場線の跡を歩く(写真17枚)
遺構の上に架けられた「ぎんなん橋」
JR三鷹駅の北口から西へ、線路沿いに700mほど歩くと、北に向かって緩くカーブを描く堀合(ほりあわい)児童公園と、その奥から始まる遊歩道があります。これが、武蔵野競技場線の跡。遊歩道に鉄道の面影はほとんどありませんが、民家との境目付近を注意深く観察すると、「工」と書かれた石の杭が残っています。「工」は明治時代に鉄道を含む産業開発を担った工部省のマークで、国鉄と民有地の敷地境界だったことを表しています。
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公園と遊歩道を進むと、左から新武蔵境通りが合流するように近付き、「いちょう橋」で玉川上水を渡ります。「いちょう橋」には歩道もありますが、その隣にもうひとつ、「ぎんなん橋」と呼ばれる歩行者専用橋があります。線路跡の上に架けられた橋で、鉄道時代を偲(しの)んでレールが埋め込まれています。
ぎんなん橋が架けられたのは、ごく最近、2012(平成24)年のこと。橋の両側には、鉄道時代の橋台が残り、橋の下をのぞき込むとかつての遺構をわずかに見ることができます。2011(平成23)年まで、ここには橋台がほぼ完全な形で残っていました。しかし、新武蔵境通りを建設した際、橋台の上に新しい歩道橋を架けたのです。傍らには案内板も設置されましたが、肝心の遺構はほとんど見えません。歩道は隣のいちょう橋にもあるのですから、貴重な遺構はできる限りそのままの姿で残してくれれば良かったのですが……。
さて、その案内板には、「中島飛行機 武蔵製作所 工場引込線 橋台跡」と書かれています。この鉄道は、球場アクセス路線となる以前は工場の専用引込線だったのです。中島飛行機は、一式戦闘機「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)などを生産した軍需企業でした。
プロ野球チームの招致に成功していれば、西武狭山線的な存在になってたのでしょうか。