実働わずか8か月! 東京に残る「薄幸」鉄路、武蔵野競技場線の跡を歩く(写真17枚)
まるで現役の駅前のようなにぎわいの駅跡周辺
話を玉川上水に戻しましょう。現在は橋台が残るだけの境浄水場の引込線跡ですが、以前は「みどり橋」と呼ばれる歩道橋がありました。遊歩道が整備された時に鉄道橋を再活用したもので、筆者(栗原 景:フォトライター)が1991(平成3)年に訪れた際は自由に渡ることができました。しかし当時すでに木製の手すりなどは腐食が進んでおり、十分に管理されていないなと感じたものです。その後、1997(平成9)年ごろには老朽化から立入禁止となり、やがて撤去されました。
ぎんなん橋を渡った所からは武蔵野市に入り、武蔵野競技場線跡は「グリーンパーク遊歩道」と名を変えて武蔵野競技場前駅跡まで続きます。鉄道の遺構は案内板以外ほとんど見当たりません。以前はたくさんあった敷地境界票も、この25年でずいぶん減りました。沿線にはまだまだ田畑が残り、ロッカーを使った農作物の無人販売所もあります。
大きく右にカーブし道路に合流すると、武蔵野中央公園。ここが、かつての中島飛行機武蔵製作所の跡地で、戦後は70年代まで米軍住宅がありました。道路の左側に建つ分譲マンションが線路跡で、その先、武蔵野市立高齢者総合センターがある交差点が、終点、武蔵野競技場前駅のあった場所です。戦前は、中島飛行機武蔵製作所の正門があった場所でもあります。
1956(昭和31)年に東京グリーンパーク球場が閉鎖された後、その跡地には団地ができました。1980年代には米軍住宅が返還されて公園となり、武蔵野市役所も移転してきます。そのため、武蔵野競技場前駅の跡地周辺にはスーパーや飲食店が多数集まり、三鷹駅から2km近く離れているのに、まるで駅前通りのような雰囲気です。
もし、東京グリーンパーク球場がもう少し都民に定着していたら、あるいはいまも武蔵野競技場線は通勤路線として活用されていたかもしれません。戦前の引込線時代から休止と復活を繰り返した武蔵野競技場線は、あまりにも不運な鉄道でした。
冬は玉川上水の遺構が樹木に隠れることもなく、わずかな遺構を観察するには最適な季節です。暖かくして、都内に残る薄幸の鉄路に思いを馳(は)せる散歩を楽しんでみてはいかがですか。
【了】
Writer: 栗原 景(フォトライター)
1971年、東京生まれ。旅と鉄道、韓国を主なテーマとするフォトライター。小学生の頃から各地の鉄道を一人で乗り歩き、国鉄時代を直接知る最後の世代。出版社勤務を経て2001年からフリー。多くの雑誌や書籍、ウェブに記事と写真を寄稿している。主な著書に『東海道新幹線の車窓は、こんなに面白い!』(東洋経済新報社)、『テツ語辞典』(誠文堂新光社/共著)など。
プロ野球チームの招致に成功していれば、西武狭山線的な存在になってたのでしょうか。