実働わずか8か月! 東京に残る「薄幸」鉄路、武蔵野競技場線の跡を歩く(写真17枚)

時代に翻弄された引込線

 ぎんなん橋から玉川上水に沿って西へ100mほど歩くと、もうひとつ橋台の跡が現れます。これは、中央本線の武蔵境駅(東京都武蔵野市)から境浄水場まで延びていた引込線の跡。実は、武蔵野競技場線のそもそものルーツは、この引込線にあります。

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1956年、東京グリーンパーク球場が解体される直前ごろの写真。武蔵野競技場線と境浄水場への引込線が見える(国土地理院の航空写真を加工)。
2006年当時の武蔵野競技場線橋台跡。これは南側の橋台で、その構造をよく観察できた(2006年6月、栗原 景撮影)。
2010年、ぎんなん橋の架設工事が始まったころの橋台跡。遺構は一部が道路を支障し、南側の遺構は向かって右側の一部が削られてしまった(2010年2月、栗原 景撮影)。

 境浄水場が完成したのは、1924(大正13)年のこと。同じころ、水の濾過(ろか)に使う砂利の運搬用に、武蔵境駅からの引込線が建設されました。しかし、太平洋戦争が始まると、引込線は運行を休止。1943(昭和18)年ごろには、境浄水場の北東にあった中島飛行機武蔵製作所への専用線に造り変えられました。ところがこの専用線も、工場が空襲で破壊されると用途を失います。

 戦後、中島飛行機跡地は進駐軍に接収されましたが、まもなく東側の用地が返還されて、東京グリーンパーク球場が建設されました。プロ野球の公式戦も開催できる5万人収容の本格的な野球場です。当時、神宮球場(東京都新宿区)が進駐軍に接収されていたため、東京でプロ野球の公式戦を開催できる野球場は、後楽園球場(同・文京区)しかありませんでした。

 球場建設と同時に、1950(昭和25)年に廃止された中島飛行機の引込線跡を活用して、三鷹駅から球場アクセス鉄道が建設されました。これが武蔵野競技場線です。試合開催日には、ボールをデザインしたヘッドマークを付けた直通電車が東京駅から運行されました。同じころ、境浄水場の引込線も復活しています。

 平和なレジャー路線として新たなスタートを切った武蔵野競技場線でしたが、当時の感覚では、三鷹や武蔵野は都心から遠すぎました。開場翌年の1952(昭和27)年には神宮球場が進駐軍から返還され、さらに川崎球場(川崎市川崎区)も開場。首都圏の野球場不足は解消し、東京グリーンパーク球場は早くも存在意義を失います。砂ぼこりが多いなど評判が良くなかったこともあり、結局、初年度にプロ野球や東京六大学野球など65試合を開催しただけで球場は事実上閉鎖してしまいました。そして、武蔵野競技場線も実働8か月で再び休止状態に追い込まれたのです。その後、路線が復活することはなく、1959(昭和34)年に正式に廃止となりました。一方、境浄水場の引込線も、1971(昭和46)年ごろに地図から姿を消します。

 運行休止と復活を繰り返した武蔵野競技場線と境浄水場の引込線。廃止後は長い間放置されていましたが、1984(昭和59)年に遊歩道と公園として整備されました。このとき、ほとんどの遺構は失われましたが、玉川上水の橋台といくつかの敷地境界票だけが残ったのです。

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コメント

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1件のコメント

  1. プロ野球チームの招致に成功していれば、西武狭山線的な存在になってたのでしょうか。