日本を焼き払ったB-29爆撃機はアメリカの「手」も焼いた…? 「超空の要塞」投入前夜

日本を燃やしたが自らも燃えまくったB-29

 そして、B-29に装備されたR-3350エンジンに付けられたあだ名が「火炎放射器」でした。

 空気抵抗を減らすようエンジンカウリングの直径をギリギリに絞り込んだため通気が悪く、シリンダーヘッド部分の潤滑が不足気味で、これがオーバーヒートするとバルブが飛んで火災が発生しました。また9つの気筒が2列で放射状に並んだシリンダーの間に冷却用空気を通すため、バッフルという板が設置されていましたが調整が微妙で、これが損傷したり取り付けが歪んでいたりすると、すぐオーバーヒートしてこれまた火災になりました。R-3350のスペックは高かったのですが、すぐ燃えるという信頼性の低さが大問題でした。

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試作1号機のXB-29-BO。3枚プロペラなど量産型とは異なる箇所が見られる。後に墜落事故第1号となり失われている(画像:アメリカ空軍)。

 B-29の開発を急ぐアメリカは、1942(昭和17)年9月21日に試作1号機XB-29-BOを初飛行させます。しかしこの試作1号機も1943(昭和18)年2月18日、エンジン火災を起こして墜落します。搭乗していたボーイング社のテストパイロットや技術者、墜落した先である食品工場の従業員や消防士など31名が死亡する惨事でした。試作1号機がいきなりB-29墜落事故第1号になったのです。

 アメリカ議会に調査委員会が設置されるスキャンダルでしたので、事故自体は公表されなかったものの情報はメディアに漏洩し、日本にも知られることになります。R-3350の代わりとなるエンジンも無く、その後、改良が重ねられ信頼性は改善されますが、次々に行われた設計変更や改修でサプライチェーンは大混乱となっていました。

【写真】アメリカの「物量」を彷彿とさせるB-29組み立て工場の様子

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コメント

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4件のコメント

  1. B-29量産のためにボーイングが建て増しした工場がエヴァレット。
    戦後は旅客機の工場になったが、そのせいでボーイングの飛行機に乗りたくない人もいたとか。

    自分の親父は空襲で焼け出されてプラモといえど爆撃機への強烈なアレルギーというか嫌悪感を持ってたくせに、倅の方はメカとして惹かれる親不孝w

  2. タービン部品の猛烈な交換に寄ってフライトが支えられていた点に触れてほしかったですね。いかにもアメリカ的な発想でそれを実現させてしまう、工業力のバックグラウンド。

  3. 20年ほど前、当時唯一飛行可能な状態だったB-29 FiFi を見学する機会がありました。
    副操縦士席と背中合わせになる形で航空機関士の席があり、後ろ向きに座った座席の窓から右翼のエンジンが見えるようになってました。また、左右の機銃手席からもエンジンが見えるようになっていて、飛行中はエンジンの監視も重要な役目だったというので、エンジンってそんなに見張ってなきゃいけないものか?と尋ねたら、いつ火を吹くかわからないからね、との答えで、当時は冗談だと思ってました。

  4. 撃墜しにくい厄介な爆撃機と見るか、事故の多い厄介な爆撃機と見るかといっても、当時のアメリカは、膨大な資源と、労力、技術力を投じて、無茶と無理を重ねても、夢のようだったこんな超空の要塞を実戦に投入抱けるだけの国力がありました。それに対して、中島航空機の構想していた空中戦艦富岳は、設計上は可能だったものの、それらを製造・完成させるだけの技術も、資源もなく、大戦末期には、アメリカにやられ放題でした。所詮、この機体一つをとってみても、当時の日本がアメリカと戦争を始めるなんて、いかに現実を無視した、暴挙だったのかを如実に示しているでしょう。