日本を焼き払ったB-29爆撃機はアメリカの「手」も焼いた…? 「超空の要塞」投入前夜
日本と戦う前の「カンザスの戦い」
カンザス州はアメリカ中西部に位置し、全域が大平原という土地柄です。湿潤大陸性気候で冬の寒気は強く、3月の平均気温は最高摂氏13度、最低摂氏1度となっています。この寒風吹きすさぶ野外にパーツの足りないB-29が並べられ、多くの技術者や労働者が巨体にとりついて寒さに震えながら突貫作業に追われたのです。この作業は後に「カンザスの戦い」と呼ばれるほど過酷なもので、現場はストライキ勃発寸前だったといわれます。
こうした努力の結果、1か月後の4月15日までに150機のB-29が軍へ引き渡されました。その直前、4月4日には、B-29をまとめて運用する統合参謀本部直属の第20空軍が創設されており、これ以上の遅延は許されないぎりぎりのタイミングでした。
飛行機増産のブラック労働は日本に限ったものではありません。アメリカもやはり必死であり、「超空の要塞」は無理と無茶を重ねて日本に飛んできていたのです。
ちなみに戦後の、アメリカ空軍第9爆撃航空団の調査によれば、第20空軍ののべ出撃機数は3万3004機でした。損失は754機で、内訳は戦闘によるもの494機、そのほかの要因による損失は260機となっています。これを戦闘で撃墜しにくい厄介な爆撃機と見るか、事故の多い厄介な爆撃機と見るかは、見解のわかれるところです。
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Writer: 月刊PANZER編集部
1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
B-29量産のためにボーイングが建て増しした工場がエヴァレット。
戦後は旅客機の工場になったが、そのせいでボーイングの飛行機に乗りたくない人もいたとか。
自分の親父は空襲で焼け出されてプラモといえど爆撃機への強烈なアレルギーというか嫌悪感を持ってたくせに、倅の方はメカとして惹かれる親不孝w
タービン部品の猛烈な交換に寄ってフライトが支えられていた点に触れてほしかったですね。いかにもアメリカ的な発想でそれを実現させてしまう、工業力のバックグラウンド。
20年ほど前、当時唯一飛行可能な状態だったB-29 FiFi を見学する機会がありました。
副操縦士席と背中合わせになる形で航空機関士の席があり、後ろ向きに座った座席の窓から右翼のエンジンが見えるようになってました。また、左右の機銃手席からもエンジンが見えるようになっていて、飛行中はエンジンの監視も重要な役目だったというので、エンジンってそんなに見張ってなきゃいけないものか?と尋ねたら、いつ火を吹くかわからないからね、との答えで、当時は冗談だと思ってました。
撃墜しにくい厄介な爆撃機と見るか、事故の多い厄介な爆撃機と見るかといっても、当時のアメリカは、膨大な資源と、労力、技術力を投じて、無茶と無理を重ねても、夢のようだったこんな超空の要塞を実戦に投入抱けるだけの国力がありました。それに対して、中島航空機の構想していた空中戦艦富岳は、設計上は可能だったものの、それらを製造・完成させるだけの技術も、資源もなく、大戦末期には、アメリカにやられ放題でした。所詮、この機体一つをとってみても、当時の日本がアメリカと戦争を始めるなんて、いかに現実を無視した、暴挙だったのかを如実に示しているでしょう。