戦艦「大和」とタッグ組んだ傑作機【後編】じつは全く違う機体が載るはずだった!? “日本初エレベーター装備の戦艦だったかも” 本当かよ?

広島県呉市に期間限定で開設されている「大和ミュージアムサテライト」に零式観測機の模型が展示されています。戸髙館長いわく、戦艦「大和」は当初、別の機体を搭載する予定だったとか。エレベーターの謎についても説明してくれました。

ナゾの機体「十二試二座偵察機」とは?

 そもそも、零式観測機は1935(昭和10)年に試作指示が出された「十試観測機」を制式化した機体です。大和型戦艦は1937(昭和12)年以降の「第三次海軍軍備補充計画」、通称「マル3計画」で整備が決まった艦艇で、同時期には十二試艦上戦闘機(のちの零式艦上戦闘機)や十二試陸上攻撃機(のちの一式陸上攻撃機)といった、その後に海軍航空部隊を支える機体の開発も始まっています。

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「大和ミュージアムサテライト」の戸髙一成館長と零式観測機の実物大模型(深水千翔撮影)。

「大和はマル 3 計画の船なので昭和 12 年以降の予算執行対象。これはつまり十二試が大和と同時代のものということになる。そうすると最初から十二試複座偵察機は大和用にすることを計画していた」(戸髙館長)

 旧日本海軍は1937年3月に十二試三座水偵の試作を愛知時計電機と川西航空機へそれぞれ命じた後、その3か月後の6月に今度は九五式水偵の後継として十二試二座水偵の試作を愛知と川西、そして中島飛行機の3社に命じています。

 このうち十二試三座水偵は紆余曲折があったものの、最終的に愛知の機体が採用され、1940年12月に「零式水上偵察機」、通称「零式三座水偵」として制式化。しかし十二試二座水偵の方は実用化されませんでした。

 戸髙館長は「十二試二座水偵は零式三座水偵を2人乗りにしただけで、ほとんど変わらない機体だった。ただ、若干安定がどうかなっていう程度のことで開発が止まることになる」と理由を説明します。

 実際、十二試二座水偵の開発を巡っては初期段階で川西が脱落。愛知と中島は試作機を完成させたものの不採用となっています。さらに零式三座水偵は巡洋艦に搭載して使用することになり、戦艦は観測機のみを搭載することになりますが、肝心の十二試二座水偵の開発がつまずいたことで問題が発生します。

「そうすると大和用の観測機がないということになる。では、どうするかというと、2年古い開発スタイル、つまり大和用でない時代のものを零式として採用して乗せることになった」

 十試観測機は川西が競争試作を辞退し、愛知も海軍の求める仕様から外れ失格。残った三菱重工業はさまざまなトラブルに手を焼き、開発が長期化していました。最終的に、新型エンジン「瑞星」を搭載し、多くの改良を施したことで申し分ない性能を発揮できるようになったため、「大和」に搭載する「零式観測機」となったわけです。

【画像】これが零式観測機のコックピット内部です

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