分倍河原駅に背を向ける騎馬像 一体どんな武将? そもそもJR南武線の方を見ていないワケ
JR南武線の分倍河原駅ホームから南側を見ると、武将の騎馬像が目に入ります。この誰もが知るであろう武将は、ここの駅名と同じ名称が付いた戦いで勝利を収めています。そして最期を、遠く離れた越前国で迎えています。
なぜ武将は駅を背にしている?
2026年の干支は午(うま)です。駅前に騎馬像が立つ駅は全国にかなりありますが、東京都府中市のJR南武線の分倍河原駅にもそれがあります。ホームから南側を見ると、馬にまたがり刀を振り上げた武将の像が目に入りますが、この位置からは武将の背中しか見えません。いったい誰なのでしょうか。
武将の正面に回ると、台座には「新田義貞公之像」と刻まれています。新田義貞は鎌倉時代末期の武将で、後醍醐天皇に呼応して関東で挙兵し、幕府をわずか15日で滅ぼしたことで知られます。では、なぜその新田義貞の像が分倍河原駅前にあるのでしょうか。
それは、鎌倉幕府が滅亡する1週間前の1333年5月中旬に「分倍河原の合戦」が起こったからです。5月初旬の挙兵後、義貞は足利千寿王(後の足利義詮)と合流し討幕軍を組織すると武蔵国を南下し、各地で幕府軍と交戦しました。戦いは新田軍有利に進み、幕府軍は背水の陣のごとく分倍河原へ追い込まれます。ただ、この場合の分倍河原は文字通り“川原”を指し、『太平記』によれば現在の府中市内の多摩川河畔で戦われたとされています。駅前が主戦場だったわけではありません。
5月15日、新田軍は幕府軍に総攻撃を仕掛けます。しかし、前日までに援軍を受けていた幕府軍が新田軍を押し返します。火の海と化した現在の国分寺市を横目に、新田軍は一時退却しますが、援軍を得て16日に再度幕府軍を攻撃し、勝利を収めました。こうして新田軍は多摩川を渡り、鎌倉へ進軍。連戦連勝の末、ついに22日に幕府を滅ぼしました。
駅前の騎馬像は1988年(昭和63年)5月、府中市が地元の歴史を後世に伝えるために建立したものです。冒頭で述べた通り、新田義貞は駅を背にしていますが、それは鎌倉の方角を向いているためだそうです。
なお、京王線中河原駅から徒歩10分ほどの場所には、「分倍河原古戦場碑」が建立されています。





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