旧日本海軍戦闘機「紫電改」が「改」に至ったワケ 飛行艇メーカー起死回生の陸上機
危険だった「長い足」
「強風」の陸上機化された戦闘機は「紫電」と呼称されます。エンジンを「火星」から「誉」に変更したことで機体の改造が必要になるなど、結局そのまま流用できたのは操縦席付近だけでした。水上機型式で主翼が胴体中央部に取り付けられたため、主脚は長くなり2段伸縮式という複雑な構造になり、これが「紫電」の弱点となります。
「紫電」の初飛行は1942(昭和17)年12月31日でしたが、エンジン不調、主脚の不具合など海軍の要求仕様を満たせませんでした。しかし一刻も早く新型戦闘機が欲しい海軍は1943(昭和18)年9月からの量産を見切りで開始してしまいます。そして主脚の問題はすぐに顕在化し、「不用意にブレーキをかけると脚が折れる」といわれ、折損事故や不具合が多発してしまいました。一説には訓練部隊ですら脚の折損で横転する事故が多発し、損耗率は実戦部隊並みだったともいわれます。
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一方、川西航空機は「紫電」の不満足な結果から、初飛行の5日後には対策に取り掛かっていました。「紫電」発注取り消しを恐れていたのかもしれません。これが「紫電」の改良型「紫電改」です。改良とはいいながら大部分が再設計され、主翼は胴体下部に取り付ける低翼式としました。これにより主脚の長さは「紫電」の2051mmから1724mmとなり、強度が改善します。胴体も細くなって延長するなど、事実上の新型機ともいえました。
「紫電改」は1943(昭和18)年12月31日に完成します。「紫電」の要求仕様を完全には満足しなかったものの、最高速度620㎞/hをマークし、運動性、操縦性ともに及第とされ、海軍はすぐに採用します。
紫電、紫電改は、水上機からの転用で、海軍の技術部が期待せずに口を出さなかったから、良い設計となったのでは。あまり知られていないが、P51と同様に層流翼も導入して、自動空戦フラップとの組み合わせとなった。(設計したことが無い海軍関係者に翼面荷重等、多数の口出しと技術的指示をされたので、零式以降の海軍戦闘機はろくなのが出来なかった。)
この川西ふくめ、三菱、中島、川崎、愛知機械などが、各社単独であれだけの実戦活用出来た軍用機を設計製造出来たのですから、アメリカが日本の航空業界を恐れ、戦後壊滅させたのは、周知の事実です。
川西は、アメリカがターゲットにしていなかった水上機メーカーなので、生き残れたのは幸いです。