新幹線に飛躍した「かもめ」 過去に2度廃止も戦前から走り続けた特急列車 栄光の歴史
「臨時燕」改め「鴎」に でも東海道本線の「日陰者特急」だった?
翌年に東京~神戸間で超特急「燕」が誕生します。下りは東京発9時、大阪着17時20分、神戸着18時。東京~大阪間の特急「富士」より所要時間を約2時間半も短縮しました。鳥の愛称にふさわしい列車です。大人気となった「燕」の需要に応えるため「臨時燕」もしばしば運行されました。この「臨時燕」が「鴎」のルーツです。日本で4番目に与えられた列車名でした。
1937(昭和12)年7月に誕生した「鴎」は、下りが東京発13時、上りは大阪発9時に設定されました。これは東京発9時、大阪発13時の「燕」と対をなすダイヤでした。現在の列車名だと「燕」1号、2号、3号、4号になるところですね。「鴎」は「燕2号」「燕3号」の役割を持つ列車と言えます。しかしサービス内容は格下でした。「鴎」は燕より3等車の比率が高く、当初は展望車もありませんでした。所要時間も20分ほど増えました。『列車名大辞典』(寺本光照著)によると「“日陰者特急”として世間から同情を集めた」とのことです。
そんな「鴎」も1940(昭和15)年に展望車が連結されて、名実ともに特急列車の風格となりました。しかし戦況悪化のため1943(昭和18)年に一旦は廃止されます。戦後の復興に伴って復活した際は、運行区間が京都~博多間に変わりました。山陽・九州地区から特急列車の復活を望む声があり、当初は東京~博多間が検討されました。しかし、当時の速度では夜にかかってしまうため寝台車が必要です。さすがに寝台列車の需要は少ないとみて、昼行特急の区間に落ち着きました。この時、列車愛称はひらがなの「かもめ」に。これは「つばめ」や「はと」も同様で、戦後の特急列車は主に「ひらがな」が使われるようになりました。
写真のキャプションからはキハ81が「かもめ」に使われたことがあると誤解されそうな記事ですね。(実際には「かもめ」の先頭車はキハ82だけです)
昭和30年台前半頃(1955~1960)の特急かもめは、当時は当たり前ながら、蒸気機関車牽引。 広島からの上りは瀬野八越え(瀬野ー八本松)のため、最後尾に補機を連結して走っていた。 普通列車などは瀬野で補機を連結したが、特急は広島からは止まらないため、広島から。 八本松・西条も止まらないため、補機は走りながら切り離した。 電車になった今でも、瀬野からから八本松の登りは、モーター音が結構厳しそうに感じる。
かもめにはキハ81ブルドック型先頭車両は使用されていないです。端正な前面のキハ82です。
誤解を与えますね
博多ー長崎間はかもめだけど、鹿児島ルートが山陽新幹線直通はみずほ、さくらな様に、直通はあかつきとかになりそう