阪急電車の祖「箕面有馬電気軌道1形」見てきた 100年前の車両 “現代に通じる”要素とは

戦後は徐々に活躍の場を狭め

 1930年代となり、600形などの大型鋼製車が投入されると、定員の少ない1形は二線級扱いとなります。1935(昭和10)年にかけて客用扉にステップを取り付け、今津線用となりました。19形も1943(昭和18)年までに今津線用となりました。

 1944(昭和19)年には、1~6が運転台機器を撤去し付随車化され、51の中間車として宝塚線に戻ります。開業当初は単行でしたが、この時は5両編成となっていました。

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1の運転台。現役時代は撤去され中間車となったが、保存展示の際に復原された(2022年12月、安藤昌季撮影)。

 太平洋戦争が終わり、1948(昭和23)年には7~9と11~18、33以外は付随車に。残った車両は支線や区間列車で運用されました。この際に15以外は、中央部の客用扉を拡張する改造も受けています。

 1949(昭和24)年より11~18が、当時同じ京阪神急行電鉄の路線だった京阪線に転出します。同年より9と33は電動貨車に。付随車化された車両は1950(昭和25)年より、完全半鋼製車体に改造され、両端の運転席スペースも撤去して客室化されました。飾り窓も撤去され、窓の天地寸法が広がっています。

 その後、1形(19形)は1956(昭和31)年より、1200系に台車や電装品を捻出して廃車が始まります。32のみ、箕面線などで中間車として使われましたが、1962(昭和36)年に廃車。電動貨車化された33(4203)は、西宮車庫の救援車として、1982(昭和57)年まで使われました。

 なお1は1957(昭和32)年、阪急創業50周年を記念して「交通文化博」の展示品として保存されることになります。「交通文化博」終了後、宝塚ファミリーランドにあった「のりもの館」にて展示された後、正雀工場に移されました。

 正雀工場では車体への再塗装や台車の交換を行い、1927(昭和2)年当時の姿に復原しています。時折「阪急レールウェイフェスティバル」なとで展示されることもあり、大手私鉄の保存車両としては、最も古い時期の貴重な姿を現在に伝えています。

【了】

【車内】100年前の電車「1形」の車内を見る

Writer: 安藤昌季(乗りものライター)

ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロ イラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。

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