弱かったから記憶に薄い? 国内に現存しない旧日本陸軍の「中戦車」奇跡の里帰りなるか 一体どんな戦車?

旧日本陸軍の中戦車をご存じでしょうか。日本はかねてから戦車を国産できる数少ない国のひとつですが、例えば「九七式改」の知名度が低いのは、国内に現存しない点も影響してそうです。ただ、間もなく日本へ里帰りするかもしれません。

欧米列強の戦車は、強かった

 1941年12月22日、日本軍戦車部隊は初めてアメリカ軍と本格的な戦車戦を行います。ルソン島のリンガエン湾に上陸した戦車第四連隊の九五式軽戦車が、アメリカ軍のM3軽戦車の迎撃を受けたのです。

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オーストラリア軍に鹵獲された九七式中戦車改(月刊PANZER編集部蔵)

 M3と九五式は同じ軽戦車でしたが、九五式はM3に命中弾を与えても撃破できず、逆にM3の攻撃により損害を出します。宿敵M3にはほかの戦線でも手を焼き、誕生したばかりの九七式改に期待が集まります。

 九七式改は1942(昭和17)年3月29日にフィリピンに到着。4月3日に鹵獲(ろかく)したM3を標的に、一式47mm戦車砲の試射を実施し、前面装甲を射距離1000mで貫通できることが確認されました。現地部隊は安堵したそうです。

 明確な資料はありませんが、一説によると旧日本軍はビルマやフィリピンでM3を31両鹵獲したとされています。徹底的に分析して「アメリカ軍は軽戦車に分類しているが、日本軍の基準では中戦車である」と評価しました。

 さらに動く車両を自軍に編入し、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などともいわれます。BTをライバルとした九七式改が設計された頃から時代は進んでいました。

 期待の九七式改の初陣は、1942年4月7日のバターン半島での追撃戦で、旧日本陸軍は他中隊と共同でM3を3両撃破します。兵力の差や運用練度、他兵科との協力関係もあり、九七式改は宿敵M3を相手に有利に戦いを進めました。

 対戦車戦闘を本務とする九七式改の目的は達せられたといえますが、この段階ではフィリピン戦は決着しており、この後の戦車戦は1944(昭和19)年のアメリカ軍上陸まで起こりません。そしてこの時、九七式改と同じ中戦車の強敵M4シャーマンが登場し、苦戦を強いられることになります。

 登場時の九七式改はライバルと比べても弱かったわけではありませんでした。ソ連のBT戦車との戦訓から生まれ、宿敵M3と初の日米戦車戦を戦い、最後は強敵M4と相まみえることになりました。第2次大戦中の列国の戦車進歩は異次元レベルであり、日本には進化を続けるライバルに追いつけるリソースが足りなかったのでした。

 九七式改と九五式軽戦車が並ぶ姿を国内で見られる日が間もなくやって来ます。旧日本陸軍の戦車は本当に弱かったのか。現代目線で議論百出するのは結構ですが、実物を見ること以上の歴史検証はありません。

【現役時代の写真】九七式と「改」のツーショット どう違う?

Writer:

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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コメント

1件のコメント

  1. 戦車はおろか対戦車砲すら持たない中国軍との戦闘には機銃弾を防げる程度であればよく、太平洋の島嶼部では道路も舗装されない不整地戦闘であり、機動性が重武装より優先される。重量のある戦車は不整地では身動きが取れなくなる。まして船舶によって輸送される事も考えればペイロードをとらぬようにもせねばならぬ。そしてそれ以上に軍事予算が少ないのであるから戦車の数を揃えるのは至難である。僅か数両の重武装高出力低燃費の戦車では戦争にならぬ。資材を食わずに低予算でも量産できる高機動で小型軽量の戦車を揃える、という方針で作られたのが日本の戦車。

    戦車vs戦車という戦闘は独ソ戦中盤以前は想定外だったし戦車は歩兵の援護が主任務というのが日本陸軍の基本思想である。それに技術的に当時の日本陸軍が重武装重火力の戦車作るのも金属加工技術、発動機開発力からして重量のある車体を速度を持って移動させる発動機もそれに耐えられる車体と動力系機構も作るのは無理であったと思われる。米軍と大戦車で大消耗戦の末に勝つ!という方針にならないのは当然すぎる話であると思う。