「アメ車が売れない。不公平だ」 米“50年の無茶ぶり”に日本はどう対応してきたか あれもこれも“外圧”で変わった
第二次トランプ政権の発足以降、自動車の貿易を巡る日米間の摩擦が再び注目されています。約50年以上にわたって続く、こうした追加関税や非関税障壁を巡る攻防は、どのように打開されてきたのでしょうか。
日本製高級車「関税100%」の危機も
一方、日本からのクルマの対米輸出台数は、自主規制の継続と現地生産の拡大により、1986年頃をピークに減少していきました。しかし、1990年代にはまた新たなバッシングが始まります。それは、「米国で生産される日本車に、米国製の部品があまり使われていない」という指摘でした。
1992年1月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、ビッグ3の代表とともに来日。宮沢喜一首相との会談後に「東京宣言」(グローバル・パートナーシップ行動計画)を出しました。
この宣言では日本メーカーによる自動車の部品購入について、1994年度に、日本への輸入との合計で約190億ドルを目指す、という努力目標が掲げられました。これは1990年度実績である約91億ドルの2倍以上でしたが、実際に1994年には、米国製部品購入額は199億ドルにまで膨らみました。
ただ米国政府の目論見に反して、自動車と自動車部品の対日赤字額は減るどころか、1986年の60億ドルから、1994年には128億ドルにまで増加。また、当時の日本でのアメリカ車と米国製部品のシェアはともに2%台でとどまっており、米政府は「日本市場が依然として排他的である」と批判しました。
さらに同時期、USTR(米通商代表部)は「日本でのクルマの修理やメンテナンスの多くは車検制度に合わせて実施されており、工場はメーカー系列の認証工場が主流で、外国製部品を一切使用していない」という旨の声明で、規制緩和を訴えました。
また「日本のディーラーには外国車の併売店舗が少ない」として、自動車ディーラー網の開放も要求。もし応じなければ、レクサスなど日本メーカーの高級車に、100%の関税を課すと迫ってきました。ただ当時の資料を見ると、各国のアメリカ車のシェアはドイツが1.4%、イギリスが0.4%、フランスは0.1%と日本よりも圧倒的に低く、日本市場が排他的とはいえませんでした。
それでも1995年、日本の自動車メーカーが輸入車の拡大・拡販、部品輸入の拡大などを盛り込んだグローバルビジョンを発表し、一応の合意を得ました。米政府は「制裁措置の回避に合意しただけで、すべてに納得したわけではない」としたものの、合意内容は2000年まで有効とされ、2001年からは新設された「ACG(日米自動車協議グループ)」での話し合いが始まりました。





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