山手線直通も? 都心乗り入れを夢見る西武新宿線 戦前に存在した「幻の延伸計画」
西武新宿駅は新宿駅から500mほど離れており、乗り換えに不便です。しかし、戦前から新宿駅へ直接乗り入れる計画が存在しました。幻に終わった都心乗り入れ計画の経緯をたどります。
潰えた三つの都心乗り入れ案
早稲田延伸の目途が立たない以上、都心アクセスは山手線に任せるしかありません。西武は高田馬場駅に多額の費用をかけて、当時としては珍しい地下連絡通路を整備するなど乗り換え利便性の向上に努めました。
しかし、昭和初期の深刻な不況で西武の経営は悪化し、1934(昭和9)年末には社債350万円が償還不可能になる事態となります。日本興業銀行が主導して経営再建を進めますが、その中で出てきたアイデアが、下落合から分岐して小滝橋通りを南下し、角筈一丁目(新宿駅北東)に至る路線でした。
下落合~新宿間の免許申請は1935(昭和10)年9月に行われるも、すぐに計画は撤回されます。2年後の1937(昭和12)年9月、西武は免許取り下げ願いを提出し、あわせて新たに高田馬場~新宿間延長線の免許を申請したのです。
興味深いのは、検討の過程で山手線への乗り入れ案が存在したと思われる痕跡です。西武から要求した記録は確認できないものの、国立公文書館には鉄道省の「電車線・貨物線とも乗り入れは不可能」という意見書が残されています。
既存設備を有効活用するため私鉄を国有鉄道に乗り入れさせてはどうかという議論は確かに当時、存在しており、また鉄道省は警戒していました。例えば1933(昭和8)年の専門誌『都市公論』で鉄道省総務課長は、村山線高田馬場と東横線渋谷からの新宿乗り入れを例に挙げて「実現すれば利用者・事業者とも非常によいが、運転上の支障があるので受け入れられない」と述べています。
1939(昭和14)年1月立案の鉄道省文書には免許状の草案が記されており、免許は時間の問題だったと思われますが、戦時体制が強化されると「不要不急」の事業は次々に凍結されていきます。結局、1944(昭和19)年4月、資源の割当が困難で実現の見通しがないとの判断で申請は却下されました。こうして戦前の三つのアプローチによる都心乗り入れ構想は潰えました。
ただし大元の早稲田延長ルートの免許はまだ生きていました。同区間の起業廃止を正式に決定したのは、西武鉄道と武蔵野鉄道が合併し、現在の西武鉄道成立後の1948(昭和23)年3月のことでした。
申請書には理由として「免許当時と交通事情を異にし、また別途高田馬場新宿間鉄道延長線敷設免許申請を為せる事情もあり」と記されています。西武はこれに先立つ1946(昭和21)年、現在につながる高田馬場~新宿間の免許申請を行っており、一本化した形です。
戦後も新宿延伸をめぐっては波瀾万丈が続きますが、様々な記事で取り上げられているので本稿はここで終わります。新宿(西武新宿)延伸は戦後のどさくさで実現したものではなく、長い時間をかけた信念だったのです。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





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