東武伊勢崎線はなぜ浅草がターミナル駅? 上野まであとわずか その歴史的背景をたどる
かつては新宿や銀座よりも繁華街だった浅草
東武鉄道が浅草をターミナル駅の地とした理由のひとつに、かつて浅草は東京一の繁華街だったことが挙げられます。
1960年代頃まで、東京の市街には、2020年現在の地下鉄路線よりさらに細かい網の目のように市電(都電の前身)が走っていました。1923(大正12)年6月7日に行われた東京市電の乗客調査では、東京市内に360あった市電停留場のなかで、雷門(浅草)停留場が乗降客数1位(5万3716人)となっています。そのほか、日本橋(3万1518人)、銀座四丁目(2万3415人)、新宿駅前(1万5400人)といった繁華街の市電停留場と比べると、いかに浅草が賑わっていたか想像できるでしょう。
浅草は特に、娯楽演芸関連の劇場、映画館の多さでも群を抜いていました。1950年代後半がその全盛期といわれます。その後はテレビの普及で演芸や映画界の斜陽化が進み、新宿など山手線各ターミナルの発展から取り残される形で、浅草は相対的に、急速に賑わいを失っていきました。
東武伊勢崎線の歴史を振り返ってみましょう。明治時代、日本が外貨を得るための主力は繊維産業でした。群馬県東部から栃木県西部にかけては、国内でも有数の養蚕と製糸、織物生産が盛んな地帯で、東武鉄道はこの地域と東京を直結する目的で建設されます。
1899(明治32)年、まず北千住~久喜間が開通しました。次いで1907(明治40)年に織物業の本場である足利町(現・栃木県足利市)へ、1910(明治43)年に群馬県の伊勢崎へと延伸していきます。
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