よく見ると「鉄道空白地帯」三鷹、なぜ? 実はいくつもあった計画

幻の「西武立川線」計画

 明治・大正期を通じて純農村地帯の面影を残していた三鷹が住宅地に変貌したきっかけとは、1923(大正12)年に発生した関東大震災でした。災害のリスクが高く、環境も悪い都心から郊外へ移り住む人が相次ぎ、1920(大正9)年に5725人だった三鷹村の人口は、20年後の1940(昭和15)年には4倍近い2万4247人にまで増加しています。

 移り住んできた人の多くは都心で働く勤め人だったことから、郊外から都心までの通勤需要が高まり、1930(昭和5)年、中央線に待望の三鷹駅が開業します。1933(昭和8)年には京王井の頭線の前身である帝都電鉄が開通し、井之頭公園(現・井の頭公園)駅と三鷹台駅が開業しました。武者小路実篤や太宰治など、多くの作家が三鷹に移り住んだのもこの頃です。

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西武多摩川線の多磨駅。府中市内の駅だが、三鷹を東西に結ぶ人見街道の近くにある(2022年5月、大藤碩哉撮影)。

 郊外の開発が進むにつれ、私鉄は既設線に挟まれた空白地帯をビジネスチャンスと見るようになります。中央線と京王線に囲まれたこのエリアでは、西武鉄道(現在の西武鉄道ではなく、西武新宿線の前身である村山線を開業した初代西武鉄道)が1923年、新宿と多磨霊園近くの浅間山まで結ぶ新線の免許を申請しています。

 この計画は1925(大正14)年に立川まで追加申請され「西武立川線」と呼ばれました。実現していれば井の頭線の久我山駅から人見街道に沿って西武多摩川線の多磨駅近くまで、三鷹市のほぼ中央を横断する路線になっていたはずです。

 しかし西武は村山線の経営が厳しく、新線建設をする余裕はなくなり、やがて西武池袋線の前身である武蔵野鉄道の傘下に入ります。その過程で立川線の免許は失効し、計画は幻に終わりました。

【地図】確かにスカスカや!三鷹市

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コメント

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6件のコメント

  1. 三鷹事件が影響しているのかと思ってイタが、そういう理由だつたのか。
    多摩モノレール方式で、人見街道とか連雀通りを通せないか?

  2. 中央線の線路が中野から立川まで長い直線なのは、八王子方面に繋ぐにあたって最も効率のよいルートだったからといわれています。

    違います。
    青梅街道と平行ルートで田無を通るルートと、甲州街道と平行ルートで府中を通るルートを計画していたけど、田無と府中の養蚕農家に反対され困っていた所、ある人が武蔵境の土地を買い占めて駅まで作って寄贈したんですよ。
    地元民なら小学校で習うほど有名な話です。

    • それ全部俗説。今じゃ全部否定されてたと思うけど。
      当時の新聞に地元民の反対の声があると載っただけで、反対運動があったという明確な記録は皆無なんだよ。
      仮に武蔵境の駅位置が決まってたとして、それと中野~立川間が直線な理由に何の関係が?
      「オラが村の偉人が私財を投げ打って鉄道を引っ張った」的な、ホラ話とは言わないが多分に誇張されたネタ話でしょう。小学校で教わる地元民しか知らない話、とか信憑性の欠片も無いし。

  3. JR三鷹駅から徒歩圏以外は何も無くて本当に不便。周辺の市と比べても開発が遅れている印象。

  4. 富士見ヶ丘~三鷹となると…
    分岐は富士見ヶ丘でも神田川沿いに崖があるから久我山直前まで並行し左に別れて人見街道沿いに進路をとり 久我山~三鷹 のバス
    鷹64 のルート沿いに… なんていうあたりですかね…

    富士見ヶ丘 ・久我山~吉祥寺~三鷹と
    平行四辺形になるような…

  5. 鉄道だけでなく、商業施設も少ないよね、三鷹。