「銀座線の大減便」歴史振り返れば納得? 100年前から高頻度運転の理由 改良は継続
増加の一途をたどった利用者 新線で分散を
その後、戦争による車両・設備の荒廃で終戦前後には1~2両編成の10分間隔運転という惨状でしたが、1946(昭和21)年10月には3両編成5分間隔の運転まで回復。1948(昭和23)年5月には4分30秒、翌1949(昭和24)年3月には4分間隔、1955(昭和30)年5月には日中3分間隔(ラッシュ時は最短2分間隔)となります。
しかし、この頃の銀座線は4両編成以上に対応していないホームがいくつも残っていたため、運転間隔の短縮が限度を迎えると、輸送力の増強も頭打ちになってしまうという問題がありました。
そこで各駅のホーム延長工事を順次行い、1955年から朝ラッシュ時の一部列車を4両編成化、翌1956(昭和31)年には5両編成、1960(昭和35)年には6両編成の運転を開始します。全ての列車が6両化されたのは、ホーム延長工事が完了した1965(昭和40)年のことでした。
銀座線の輸送人員(1日平均)の推移から見てみると、1955年度の約36万人から1960年度に約51万人、1965年度に約70万人と右肩上がりに増えています。輸送力の増強は限界に達したものの利用者はさらに増加し、1970(昭和45)年度は約97万人、1980(昭和55)年度は約103万人、1988(昭和63)年度にはピークとなる約119万人に達しています。
この間、浅草方では都営浅草線、日比谷線、千代田線が、渋谷方では半蔵門線が開業しています。ちなみに半蔵門線は1989(平成元)年1月に三越前まで延伸しており、以降、利用者が転移したことで銀座線の利用者が減少に転じます。新線が増加する輸送需要を吸収することで、銀座線はギリギリの所で保たれていたのです。
やっとまともな混雑率になったのに、減らしてどうする。
乗客は、相変わらす貨物扱いか。