「黒字だけど廃線」いまや“ドル箱路線”に 地域のバス最大手が“鉄道をやめた”ワケ
赤字ローカル線の存廃が取りざたされることはよくありますが、現在の岡山市では利用者数が堅調だった鉄道の「黒字路線」が廃止されました。一体、なぜでしょうか。バスに転換されたその路線は、今やグループの屋台骨となっています。
いよいよ廃止 「補償してくれないだと!?」
線路幅が狭く、車両も小さい軽便鉄道は建設費を抑えられるメリットがあった半面、高速化や大量輸送に対応できずに戦後相次いで消えました。にもかかわらず、西大寺鉄道が1962年の廃止までほぼ黒字続きだった一因は、利用客が膨れあがる“かき入れ時”の存在でした。
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それは国の重要無形民俗文化財に指定されている毎年2月の第三土曜日に西大寺観音院で開催されるはだか祭り「西大寺会陽」です。1963年に制作された西大寺鉄道の記録映画『風雪52年』は、西大寺会陽の日に乗客でごった返す列車を映し出して「この日のために西大寺鉄道は年に1度の臨時ダイヤを組み、全車両をフルに運転した」と解説しています。
それでも、両備バス(現・両備HD)が1955年に合併した西大寺鉄道線の廃止を決断したのは、国鉄赤穂線の伊部~東岡山間が1962年に延伸開業して乗客を奪われるのが必至だったためです。
赤穂線に新設された西大寺駅は西大寺市駅と1kmあまり離れているものの、路線はほぼ併走しており、両備バスは路線バスに転換して生き残る道を選びました。
早くから赤穂線延伸の計画を把握し、西大寺鉄道線への投資を極力抑えていたことも黒字経営に寄与したとされます。戦前には官鉄の開業に伴って廃止される私鉄に国が補償金を支払っていたのを踏まえ、両備バスは補償金の支給を求めました。
ところが国鉄は、国が直接運営していた鉄道を戦後の1949年に公社の国鉄が引き継いだことを盾に取り、西大寺鉄道線の廃止に対する補償金を支払わないと通告しました。両備バスは猛反発し、交渉の末1966年に補償金を手にしたものの、申請額の4割未満にとどまりました。
現在、両備HDの西大寺本線の便数はJR赤穂線を大きく上回り、バスの行き先表示には「西大寺」とだけ記しています。西大寺の交通の要衝は西大寺バスセンターだと誇示するような表記からは、鉄路は赤穂線に道を譲ったものの、両備グループが1世紀あまりにわたって岡山市中心部と西大寺を結ぶ足を担い続けてきたという自負心が伝わってきます。
Writer: 大塚圭一郎(共同通信社経済部次長・鉄旅オブザイヤー審査員)
1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学フランス語学科卒、共同通信社に入社。ニューヨーク支局特派員、ワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。「乗りもの」ならば国内外のあらゆるものに関心を持つ。VIA鉄道カナダの愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員。
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