両毛線があるのになぜ? 明治の産業と「東京へ!」の執念が生んだ複雑鉄道網の歴史
群馬・栃木にまたがる両毛地域は、多くの路線が入り組む複雑な鉄道ネットワークが特徴です。なぜこのような形になったのか、その歴史をたどると、明治時代の絹産業の発展が大きく関わっていました。
始まりは「絹」だった
大都市圏を除いて、鉄道ネットワークの密度が最も高い地域の一つが両毛でしょう。両毛とは群馬県の旧名である上毛野から、栃木県にあたる下毛野にまたがる地域を指し、太田市、館林市、桐生市、みどり市、足利市、佐野市を中心に6市5町が「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」を構成しています。
この地域は古くから生糸や絹織物など繊維産業が盛んでした。明治から昭和初期にかけて、生糸は輸出額の30~40%を占める基幹産業であり、絹織物、錦糸、錦織物を含めれば半数を占める外貨獲得の柱でした。
産地から貿易港まで輸出品を運ぶのが鉄道です。日本初の私設鉄道である日本鉄道は、1883(明治16)年7月に上野~熊谷間を開業させると、1884(明治17)年5月に高崎、8月に前橋まで延伸します。最初に高崎線が建設されたのは、東京と京都を結ぶ東西鉄道を中山道経由で建設する構想があったことに加え、養蚕業・製糸業の盛んな群馬と横浜を早急に結ぶためでした。
続いて1885(明治18)年7月に東北本線が開業します。高崎線と東北本線の分岐点は大宮に決まりますが、その過程で両毛地域は、熊谷で分岐し、伊勢崎、桐生、足利、佐野、栃木、鹿沼を経て宇都宮に至る案を主張しました。
あまりに遠回りで非効率なので採用されませんでしたが、この地域に鉄道が必要なことは明白でした。そこで地元資本は1887(明治20)年に両毛鉄道を設立し、小山~前橋間に現在の両毛線を整備しました。これが両毛地域の第一の軸です。
両毛線の中央部にある足利は、両毛地域の繊維生産の中心地です。1890年代以降、事業の近代化、大規模化が進んだことで旅客・貨物の交通量が急増したため、足利と東京を直結する鉄道が必要とされました。そこで登場するのが第二の軸、東武鉄道です。
東武は東京市本所区(現・東京都墨田区)から足利町(現・足利市)まで83.7kmの鉄道を建設すべく、1895(明治28)年に創立されました。東京の資本家が中心となった計画でしたが、『近代足利市史』は、地元有力者が全面協力したことで佐野との誘致合戦に勝利したと記しています。
実業家・根津嘉一郎の社長就任で経営難を乗り越えた東武は、1907(明治40)年に利根川橋梁を建設し、足利町まで到達します。当初計画ではここが終点でしたが、根津はさらなる事業拡大を目指して伊勢崎までの延伸を決定します。こうして足利町に加え、両毛線から取り残された館林、太田と東京を直結する東武伊勢崎線は1910(明治43)年に全通しました。





「戦時中には太田市の中島飛行機小泉製作所への輸送路として小泉線館林~東小泉間、小泉町~西小泉間が建設され、そこからさらに利根川を渡って熊谷に至る熊谷線が計画されました(戦後、埼玉側の妻沼~熊谷間のみ建設され、1983年に廃止」
館林~東小泉は中原鉄道として建設されたので太田~東小泉間の間違いでは?
熊谷線も戦争中に建設されたはずではないかと。
あと足利は栃木県で群馬県側の繊維産業の中心とは言えないかもです。両毛地域として群馬県側の桐生や太田にも繊維産業が集積していたはずです。
ご指摘ありがとうございます。
記事を修正いたしました。