鉄道の回答一覧
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優先座席が空いていたら座りますか?
手帳は持っていませんが片目潰れてますのでなるべく座ります。優先席しか空いてなければ優先席に座ります。 ただ、見た目は普通のおっさんなので、明らかに山登りに行った帰りという格好をした60代後半から70代前半とみられる方から、席を譲るように求められることがあります。 ヘルプマークでも持てばいいのでしょうが、ヘルプマークのような安易なものに頼って持ってる持ってないで判断するより、見た目じゃわからないかもしれないけど困っている人もいるんだよ、ということの気配りができる社会になってほしいなと思います。 優先席が空いていても座らない人は、対象になりそうな人を見かけた時に自分が座っているのは居心地悪く感じる気持ちはあるけど、でも声をかけて席を譲る行動はなかなか起こせない、だったら始めから座らなければいい、という考えだと思います。 個人的には優先席の対象に未就学児も入れて欲しいです。頭が重くバランス悪いし脚の力が弱くて踏ん張れないし吊革には当然掴まれないしで、立ってると危険なので。
質問者様のおっしゃる状況(ポッカリと開いてる)であれば座りにくいですねぇ でも、一般座席にも空席が目立つ場合にはそこを狙って座ることが度々です 関西私鉄に多いようですが、車両の最前部に設置されている優先席(右側)、私はそこを「展望席」と密かに呼んでおりますので… やはり「展望席」に座りたい、これは乗り鉄の性というべきでしょうか(笑) ある程度混んできたなら立ち上がり、真ん中の貫通路越しに前を眺める、これが私の「指定席」となっております
それなりの歳になったので座ります。 子牛力ビーフさんも言っていますが、迷惑なのは空席の前に突っ立ていられることです。座りたくても避けて貰わないとダメですし、本人は窓側に向いているので後にいる人に気が付かないです。 座って中を向いて譲るべき方が来た時に代われば良いだけです。または空席の前に立たないことです。 混んでいる時にやられると1人分の立ち面積が狭くなり、ギュウギュウ度が増加することを理解して下さい。 最近は優先席でなくても席を勧められることが多くなってきました。自分自身はまだまだのつもりでも外から見れば、それなりになっちゃったんだと思い知らされています。 譲られ率は、関東<<関西と感じています。杖をついていると、関西だとほぼ100%勧められます。
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解決済みSLに乗った事はありますか?
先月初めてSLに乗車しました。 乗車したのはJR山口線のSLやまぐち号で、当日はD51の牽引でしたが、5両の客車を牽引するSLはとても凜々しくてカッコ良かったです! トンネルの中に入ると窓を閉めていても客室内が曇る様子には笑いました。 折り返しの津和野駅では転車台で方向転換をする様子も見られました。 沿線の地元の方々や鉄道ファンが列車に向かって手を振ってくださり、それに運転士さんが汽笛で応えるコール&レスポンスが楽しかったですよ。
蒸気機関車が現役だったころは乗ったことがありませんが、復活した蒸気機関車がけん引する列車であれば以下のものに乗ったことがあります。 ・「SL奥利根」(現在の「SLみなかみ」) ・「パレオエクスプレス」 ・「SLかわね路」 ・「SL人吉」 意外と少ないですね…。
ウン十年前の話ですが、幼稚園の遠足が秋の紅葉シーズンに大井川鐵道のSLに乗って千頭まで行き、さらにバスに乗って寸又峡でお弁当食べたり探検したりでした。 夢の吊り橋という吊り橋があって、それを渡るのが卒園を控えた年長さんの通過儀礼。高さ8m、長さ90m、下が見え、揺れる吊り橋を渡るというのは、子供にとってはそれは勇気のいることでした。
私が中学生の頃までは蒸気機関車はまだ現役で営業運転をしていましたので、牽引列車には何度か乗車したことがあります 1971年にC62が3重連で牽引した急行ニセコに乗車したときなど、大半の時間をデッキから身を乗り出すようにして写真を撮ってました (今の人達には信じられないでしょうが、当時は走行中でも客車の扉は開けることができたのです…良い子はマネしちゃいけません www) その時に前補機についていたC622は倶知安までの運転でしたので、小樽築港に帰る際にはD51と重連で当時の121レを牽引、私もその列車に乗って札幌に戻りました (ちなみに倶知安での滞留時間中にはC62のキャブにも乗車させてもらいました) 最後に通常営業の列車に乗車したのは1974年に祖父母の家から帰る際に乗車した宗谷本線324レです 稚内-旭川間の普通列車で牽引機はC5530でした ご承知の通り、この当時は「SLブーム」の真最中、鉄道マニアでありながら、「ブーム」には少々背を向けていた「反抗期の少年」(笑)でしたので、写真は幌延駅での給水中に数カット撮ったくらいで、車内ではずーっと車窓をボーッと眺めていただけでした ただ、途中の名寄駅では同じC55牽引の下り列車と顔を合わせるので、このときばかりはカメラマンの最前列に陣取って撮影しましたが…逆光+ピンぼけでした この当時、オモチャみたいなカメラしか買ってもらえなかった少年はその頃の妬みが未だに尾を引いていて、アラ還の現在に至っても「撮り鉄」という人種があまり好きになれないのですwww それにしても、蒸機牽引の列車、外から眺めるのは非常に素敵な光景ですが、実際に乗車していた身からしてみると、廃止もやむを得なかったな、と今では思ってしまいますね あの煙と煤の前では旅情なんて言葉も吹っ飛んでしまいますから(笑)
今から51年前、私がまだ中学2年生だった1967年(昭和42年)の夏休み。買ってもらったばかりのカメラを手に上野駅に行きました。当時はまだSL牽引の旅客列車が走っていて、上野発成田行の普通列車に乗りました。牽引機は一番好きだったC57。それで佐倉機関区を訪れました。まだSLブームも走りのおおらかな時代で、機関庫の前でC57を撮っていると、中学生の撮り鉄(まだそんな言葉もありませんでしたが)が珍しかったのか、機関士さんが声をかけてくれて、キャブに上げてくれて、ターンテーブルでの車庫入れまで乗せてくれました。50年たった今でも思い出すとワクワクします。
多分、一番最初は内房へ海水浴に行ったとき。小さいときは新小岩を通るのが嫌いだった。(機関区があったし、貨車の入れ替えでしょっちゅう汽笛を鳴らされて驚いていた記憶が) そのあと、少し空いて修学旅行で梅小路蒸気機関車館、廃止を意識して乗ったのは日中線(夜行の臨時ばんだいで行った、たしか1日3往復の貨客混結)。 またしばらく空いて、真岡鉄道、一番最近は去年明治村。
今は新交通システム(案内軌条式鉄道)になっていますが、1984(昭和59)年5月まで西武山口線は遊園地前~ユネスコ村間で運転されていて、蒸気機関車や蓄電池機関車が客車をけん引していました。 子どものころ、うっすらと蒸気機関車けん引の列車に乗車した記憶があります。
乗ったかどうかは定かではありませんが、401系が走り始めたころ(昭和36年ころ)常磐線にはSL牽引の客車列車が上野から運転されていた記憶があります。 SLではないですが、「80系はつかり」が走り始めたころでもあり、夕方4時ころ松戸駅を通過するのを見に行った記憶が戻ってきました。 小学生でまだまだ鉄に汚染されていたわけではないので間違っていたらごめんなさい、です。 確かに乗ったSL列車は以下です。 1995年ころ:大井川鐵道 新金谷→千頭(たぶん) 2003年:秩父鉄道「パレオエクスプレス」熊谷→長瀞 2009年:真岡鉄道「SLもうか」下館→真岡 2010年:JR東日本「SL・EL碓氷」高崎→横川 2018年:JR西日本「SLやまぐち号(新型客車)」新山口→津和野 2018年:JR東日本「SL銀河」花巻→遠野 2019年(予定):JR九州「SL人吉」熊本→人吉 記憶と記録を辿ると結構乗っていますね。f
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金沢~仙台直通新幹線、定期列車だったら列車名は何にしますか?
復活版なら、仙台発金沢行き「白山」、金沢発仙台行き「ひばり」 新名称なら、「きたきた」なんて言うのはどうでしょう。 北陸、東北の北をつなげて「北北」をひらがなで。
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最も走行時間が長い新幹線
山陽新幹線が全線開業した当時、東京~博多間は「ひかり」で6時間56分でしたね。 リバイバルで、6時間56分をかけて運転する臨時列車があってもいいかと思いますが、食堂車がないので需要は少ないでしょうか…。
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解決済み名古屋地区の東海道線は10両化すべき理由。
編成が増えるのはいいと思うのですが、そもそも東海道本線名古屋口は311系、313系が使用されていて、転換クロスシートであったりセミクロスシートであるところも混雑する要因だと思います。 車両の運用が難しいとは思いますが、混雑時間帯には中央西線で使われている211系のロングシート車両を使用すればいいのではないかと思います。
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大阪メトロ中央線について
阿波座駅付近に、中央線と千日前線をつなぐ連絡線があります。そこから森ノ宮検車場(車庫)に向かっている電車ですね。 中央線を本町から阿波座に向かって行くと、阿波座駅手前で左側へ分岐している線路があります。その先で千日前線につながっています。
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解決済み青春18きっぷ
経路等については他の方の回答のとおりですが、 > 第三セクターは、途中下車しなければ青春18きっぷを使う事が出来る?なら、 コメントのここについでですが、 第三セクターに18きっぷで乗れるのは、特定の区間(金沢-津幡、高岡-富山)について、途中下車せず、他の区間を利用せずに「JR線へ」通過利用する際の特例です。三セクの区間外を乗車した場合は、全乗車区間の運賃が必要です。 北陸本線か七尾線と、城端線か氷見線か高山線を利用し、津幡と高岡・富山の乗り換えない方でも下車する場合のみ適用できます。 ただし、実際は津幡・高岡・富山でそれぞれ一旦下車すれば、バレづらいとは思います。 ですが、全て有人駅だと思いますので検札を受けた切符を所持していなければ不審に思われるかもしれません。 下車せずに乗り通す場合は津幡-高岡と富山-直江津の切符を持っていても、乗り通している事がバレた場合は不正乗車として、所持しているきっぷを無効にされた上で、全区間の3倍運賃を請求される可能性もあります。 (よほど悪質と思われなければ、切符を持たない区間の運賃を精算するだけだとは思いますが) まとめると三セク経由でいくならば 基本的には金沢-直江津の切符が必要 津幡-高岡と富山-直江津の切符だけでも可能だか、寄り道する必要がある となります。
高速バスを利用ありにするのであれば以下のようなルートも可能かと 小松 06:37発 金沢 07:11着 金沢 07:50発 高速バス万代シティBC行 (要予約) 新潟駅前12:27着 ここから下は「郡山に行ける最終電車」ということで 新潟17:08発 新津行 新津17:28着→ 17:37発 会津若松行 会津若松20:07着→ 20:12発 快速 郡山行 郡山 21:21着 会津若松からであればこの後に21:01が最終の郡山行になります。 新潟行の高速バスは上記のものと夕方に1本の2本しかない模様。 電車のみでならば 小松07:06発に乗れば当日中の郡山到着は可能。 途中、金沢・富山・泊・市振・直江津・長岡・新潟・新津・会津若松で乗り換え。 ただし津幡〜高岡と富山〜直江津の乗車券が必要。 (新潟駅に寄るという前提で。新潟駅寄らない場合は新津乗り換えで。) この場合の新潟駅到着は15:56 新潟駅滞在の場合1時間ちょっとしかありませんが。 新潟から先は上記の高速バスのルートと同じです
青春18きっぷ、と書かれているので、 基本的にJR(普通列車)のみでの移動を考えると、実際には1日で郡山まで着くのは不可能です。 出発当日中に郡山到着を目指す場合、 旧北陸本線の第三セクター、または北陸新幹線を利用する必要があります。 三セク利用なら直江津から信越本線で、新幹線なら飯山駅から飯山線経由で、それぞれ新津駅を目指します。 新津駅から郡山までは磐越西線を利用します。 もし新潟駅周辺に用事があるのなら、滞在時間次第では新幹線を使わないと時間的に厳しいかも知れません。 三セク利用の場合、金沢〜津幡と高岡〜富山間はそれぞれ途中下車なしの通過利用に限り普通・快速にそのまま乗れますので、 津幡〜高岡と富山〜直江津のみ別途乗車券を買えば済みます。 新幹線利用の場合は糸魚川、上越妙高の各駅から直江津まで、えちごトキめき鉄道を利用するルートも有ります。 続いて郡山には翌日到着で良い場合、 敦賀、米原経由で東海道本線へ、 東京または新宿を経由し、高崎線、上越線で水上までは当日中に到達可能です。 温泉宿(または高崎や大宮辺りのビジネスホテル)で一泊後、再び上越線、信越本線を利用して、新津からは先程と同様になります。 ただしこちらも敦賀〜近江塩津間で足止めを食らうようになっていますので、一部区間では特急利用で時間を稼いだ方が良いと思います。
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ICカードで一旦改札を通り、同じ駅でまた出るとどうなる?
以前、ICOCAで京都駅に中央口から入場し、用事を思い出し西口が近かったので出場しようとしたら「中央口から入場されているので西口で出ると入場料金が掛かりますが」と言われ中央口に戻って出場した記憶があります。その時、入場料は掛かりませんでした。
ICカード定期券(定期券区間内)なら何も起こらず出場できます。当たり前ですね。
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解決済み駅名を変えたほうがいいと思う駅
俺は東武の新越谷駅と武蔵野線の北朝霞駅、そして東急溝の口駅。 何も乗換駅として分かりにくく別駅として扱うのはまずいから。 慣れない人だと同一駅という認識がなく、乗り換えで迷うから。 個人的には 新越谷駅→南越谷駅。 北朝霞駅→朝霞台駅。 溝の口駅→武蔵溝ノ口駅。 に変えた方がわかりやすくて覚えやすいと思います。 乗換駅は基本的に同じ駅名にした方が文字も少なくてわかりやすいからです。 個人的には永山駅や多摩センター駅も小田急や京王を外した方が短くて分かりやすいかと思います。
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山手線が品川~田端間のみって本当?
はい本当です ご承知のように、日本最初の営業鉄道は明治5年に官設鉄道の新橋~横浜間が開通しました その後、明治16年に私鉄の日本鉄道が上野~熊谷間で開業、明治18年には官設鉄道との連絡のために赤羽~品川間に支線である日本鉄道山手線を開業させました 「山手線」という路線名はこのときに誕生しました 明治38年に田端~池袋、大正3年には中央停車場(東京駅)が開業し、最後に東京~秋葉原間が大正14年に開業して(上野~秋葉原は明治23年開通の貨物線)環状運転が可能になりました 現在の正式路線名は先の回答者様たちのとおりです ちなみに赤羽~池袋間は昭和47年に山手線から分離、赤羽線となりました 蛇足ながら、東京~上野間の路線が誕生する以前は「中野~新宿~東京~品川~新宿~上野」の経路での「のの字」運転の時代がありました
「JR時刻表」の該当ページを見てみるとわかるかと思いますが本当です。 品川駅~渋谷駅~新宿駅~池袋駅~田端駅間の北を上にした地図でちょうどアルファベットのCのような区間が山手線です。 じゃ残りの田端駅~秋葉原駅~東京駅~浜松町駅~品川駅間は何かという話になりますが田端駅~秋葉原駅~東京駅間は東北本線・東京駅~浜松町駅~品川駅間は東海道本線になります。 ついでながら話すと正式路線名での表記にしてしまうと京浜東北線は大宮駅~東京駅間が東北本線・東京駅~横浜駅間が東海道本線になってしまいます(横浜駅~磯子駅~根岸駅間は正式線名で根岸線と呼ばれることもあるので割愛しました)し、埼京線に至っては大崎駅~池袋駅が山手線・池袋駅~赤羽駅間が赤羽線・赤羽駅~武蔵浦和駅~大宮駅間が東北本線の「名無し支線」になってしまいます。
本当です。 列車案内上の「山手線電車」と、路線としての「山手線」とは少々違う物となっています。 正式な路線としては 東京〜品川間が東海道本線の一部、 東京〜田端間が東北本線の一部、 品川〜田端間が山手線となります。 ちなみに中央本線は、代々木〜新宿間で途切れている扱いになっているようです。 山手線電車は、東海道本線と東北本線に乗り入れる事によって環状運転を実現しています。 「東海道本線・山手線・東北本線経由 環状運転電車」なんて、聞き取りにくいし読みにくいですから、 便宜上「山手線」と案内されているのです。 さらにオマケで、初期の山手線は品川〜赤羽でした。 貨物輸送か何かの都合(常磐線からの石炭だったかな?)だったと思いますが、のちに池袋から田端までの短絡線が敷設され、 山手線は品川〜田端に、池袋〜赤羽は赤羽線となりました。 現在の埼京線は、「埼京線」という路線は存在せず、「山手線〜赤羽線〜東北本線(支線)〜川越線」の線路上を「埼京線」として案内されている列車が走っているだけなのです。
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jr東海が開発中の特急ひだの後継車両は電車と呼びますか?
駅でのアナウンス等の案内では「列車」で異論はありません。 ただ鉄道車両の分類としては「電車」は相応しくないと思います。 外部電源の架線や第三軌条から電力を取り込む型式が「電車」だと思います。 キハ85系後継は「ディーゼルエンジンでの発電電力+蓄電池による電動機駆動」のようなのでどちらかと言えば「気動車」だと思います。DF200は電気機関車ではないですよね。 ただハイブリッド車もいろいろな型式があり、「電車」でも良いかなと思う型式もありますね。 EV-E801系やBEC819系は蓄電池電車とも呼ばれていますからね。
JR東日本の仙石東北ラインで使用されているHB-E210系気動車のように、エンジンで発電した電力と蓄電池に貯めた電力を組み合わせ、モーターを回して走行するようですので、車両的には「気動車」と言えるでしょう。 でも、利用者に対しては電車、気動車関係なく「列車」で案内すると思います。
「列車」と呼ぶと思います。 電化路線でも「電車」でなく「列車」と案内しているところも多いです。 鉄道を走る列車、電車、汽車は全て「列車」です。(たとえ一両編成でも) 「電車」「気動車」は、もともと動力の方式による車両の呼び分けですが、 かつて大都市近郊で「国電」などの近郊路線に先に電車が投入されて行った経緯から、それらを特に「電車」として呼び分けた物です。 一方、急行などの優等列車が向かう郊外では電化が遅れていましたので、機関車で牽引されて行くそれらは「列車」と呼ばれたままでした。 今でも複々線区間で「列車線」「電車線」の呼び分けが残るのはその名残りですね。 その後電化の推進と、通勤エリアの拡大に伴い、それまでの「電車」「列車」の呼び分けが曖昧になってしまいました。 実際、人口比率では電化区間の沿線人口の方が圧倒的に多いですので、非電化区間にも関わらず「鉄道=電車」とイメージしたり呼んだりしている人も多いはずです。 年配の方には「汽車」と呼ぶ方も多い様ですが、こちらはもともと「蒸気機関車に引かれた列車」の意味だそうです。 と言うか、馬や人力で動かしていた時代を除けば、最初は「汽車」しか無かった訳ですから、 もしかしたら、その後電車や電気機関車、気動車やディーゼル機関車が登場した事で「列車」という言葉が生まれたのかも知れませんねぇ。
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